*6月下旬に投稿した朱自清の「荷塘月色」(月下の蓮池)前半部分に続いて、やっと後半部分です。翻訳をしたのは昨年末でしたが、どうにもこうにも困難を極めた部分です。
「荷塘月色」(月下の蓮池)~後半部分~
(承前)不意に私は「採蓮」の故事を思い起こす。「採蓮」は江南地方の旧い習わしだが、とても早くから有るもののようで、六朝時代に最も盛んだった。詩歌からその様子を伺い知ることが出来る。「採蓮」は少女が主役、彼女たちを乗せた小舟が揺れて、恋の歌が遠く聴こえる。「採蓮人(採蓮を愉しむ人)」については、多くを語るまい。私たちは「採蓮」を遊ぶ人々を今将に、間近に見る。あれは賑やかな季節で、そしてまた風雅な季節。梁元帝の<採蓮賦>に尋ねれば好い。
<そして艶やかな少女よ、揺蕩う船に少年と心を通わせる。水鳥が首をもたげれば、共に羽杯を交わす。藻を絡めて櫂を漕げば、船は浮草を除けて航路を開く。少女は腰に帯を結び、恋を孕んで船は行きつ戻りつ。夏の始まりにはまだ春があり、葉は瑞々しく花は咲き初めて、濡れた衣に少女は微笑み、船が傾くのを恐れて密やかに身頃を整える。>
当時の楽しげな舟遊びの光景が目に浮かぶ。この風趣よ!惜しむべきは、私たちは今や、とうにこの楽しみを忘れ去っていることだ。 それからまた、<西洲曲>の一句を思い起こす。
<採蓮その南の池は秋にして、蓮の花は頭をよぎる。頭を低くして蓮の実を遊べば、蓮の実の清らかさは水の如し。>
今宵、もしも採蓮の人有れば、蓮の花は<西洲曲>に詠う「頭をよぎる」と重なるのだろう。ただ、水の流れに、些かも人影を見ることはできず、その興趣はない。私はこの蓮池に、ふと江南の面影を見て、それを懐かしんでいたのだ。 ―思いを巡らせ、その果てに顔を上げれば、不覚にも既に我が家の門前に辿り着き、私は軽く門を押して中に入った。何の声もそこには無く、妻はとっくに深い眠りに落ちていた。
(一九二七年七月、北京清華園。)
*底本「朱自清散文选集」百花文艺出版社
(2014.12.28.洋文訳了)
*尚、私の拙訳、転載等禁ということで、読んでお楽しみ?くださいね。
*画像は、廿日市市極楽寺山蛇の池(2015.7.29.)
先月23日から25日(2015.6.23~25)まで茨城県水戸市に滞在していました。
<水戸>
先月下旬、茨城県水戸市へ行く機会があって、水戸芸術館へも足を延ばしました。大げさではありますが、ずっとずっと私にとっては憧れだった「水戸芸術館」。訪れた当日は、演劇は数日前に幕を下ろし、コンサートの類も、美術展も特別なものはなかったわけで、人影まばら。それでもその静かな空間を満喫できました。
パイプオルガンの下あたりだったか、壁に音楽評論家で初代館長、故吉田秀和氏(1913~2012)の銅版が埋め込まれてありました。その銅版には肖像画(サインから察するに横尾忠則氏によるものかなあ)と併せて論語が彫ってありました。
私なりの訳でご紹介します。
「知之者不如好之者 好之者不如楽之者」
「それを知っているからってそれが好きな人にはかなわないし、
それが好きだからってそれを楽しむ人にはおよばない」
水戸へ着いた時は土砂降りで、翌日は打って変わって、晴天猛暑。
水戸芸術館の塔から海は見えませんでしたが、芝の緑と共に、なんだか水平でゆったりとした時間を楽しむことが出来ました。
皆さんも、もしまだ行かれて無いようでしたら、いつかぜひ。(偕楽園公園へも。)
それにしても梅雨明けが待ち遠しい・・・・
(HIRO訳漢詩25)
「題春晚」 周敦顧
花落柴门掩夕挥,
昏鸦数点傍林飞。
吟馀小立阑干外,
遥见樵渔一路归。
「晩春に」 (周敦顧)
花は散り日は落ちて、
数羽の鴉が渡って行く。
ひと時欄干に佇めば、
樵や漁夫や家路を急ぐ。
(訳:洋文、2015.4.29)
(周敦顧:宋の人、1017~1073)
寒の戻り。今朝から断続的に吹雪き。それでも庭の山茱萸(さんしゅゆ)は満開です。
というわけで、今回は晩唐の詩人、貫休の、二編からなる「春晚书山家屋壁」の
その最初の一編を訳してみました。
詩の中に鶯の鳴き声が聞こえてきます。
そして、鶯は、中国では「黄鳥」とも書きます。
山茱萸の鮮やかな黄色もまぶしいこの季節にピッタリと、思ったわけで・・・。
(画像は、我が家の庭のその山茱萸です。)
「春晚书山家屋壁」 贯休
夜のとばりは重く、 大地を覆っている。
新年は翅を開き始めている。
ああ!なんと麗しく鮮やかな赤い翅!
彼女の口には深く澄んだ黄金の粒―
「未来」の種子。
(朱自清「新年」より:拙訳)
2015年、世界中に幸多くありますように。
今夜は月齢10.5。
半月は過ぎたけれど、久し振りに雲が切れて、きれいな月でした。
最近の私のお気に入り、李白の「峨眉山月歌」を、私流に訳してみました。
「峨眉山月歌」 李白
峨眉山月半轮秋,
影入平羌江水流。
夜发清溪向三峡,
思君不见下渝州。
「峨眉山月の歌」
峨眉山に半月が懸る秋、
影は平羌(へいきょう)江(こう)の水面に落ちる。
夜には清溪を発って向かう三峡、
思えど君に会えず渝州(ゆしゅう)を去る。
(棗樹訳)