6月3日月曜日夜から喉の痛み、咳が強くなる。Sの発症からほぼ3日遅れ。ただ発熱は無い。
6日で、Sの新型コロナ陽性による5日間の自宅待機期間が終わるが、濃厚接触者になる私の症状は、まだ完ぺきに治っているとは言い辛い。
激しい倦怠感を伴っている。ただ、相変わらず発熱は無い。
平熱が36.0前後と低めの私としては、ここのところ36.6前後で若干高いと言えば高いが。
8日。土曜日。Sはデーサービス。
私は、どうにか8割がた体調持ち直した感があり、延び延びになっていた整形外科受診!
凡そ2ゕ月前ぐらいから右肩の痛みが強くなり始め、一ゕ月前には、右肩が左肩を添えてやらなければ自力で上に挙らなくなっていた。最近では運転時、左手操作も辛くなっていたわけで。
ほぼ一年前とよく似た症状で、再発か。
その時は、左ひじの痛みが主だった。一年前と同じ整形外科クリニックへ。
ここはいつ来ても患者が多い人気?のクリニックらしい。
1時間半余り待って、診察。
X線、エコー、問診、触診など。
神経は少し切れてはいるようだけれど、手術までは必要ないだろうと。
結局、先ずは注射からと。
肩の患部に、
「カルボカインアンプル注1% 5mL、1菅」
「デカドロン注射液1.65mL、1菅」
太めの注射器から、肩の奥の関節部分へ液がじんわりと浸潤して行くのが実感できる。
注射が終わり針が抜かれた直後から、医師に促されるまま腕は、まだ軽い痛みを伴いながらも既に上へと動く。
2週間後にもう一度来なさいとのこと。
痛み止め薬「セレコキシプ錠100㎎<VTRS>」、胃薬「レバミピド錠100㎎<オーツか>」湿布薬「ロキソプロフェンNaテープ100mg<ユートク>」それぞれ1週間分処方。
クリニックを出たのは12時半近く。
それから市内中区で用事を済ませ、月1回の太極拳教室へ1時間遅れで。痛みが軽くなったものの、完全には遠いが、腕から肩が幾分上がりやすくなってきたわけで、なんとかがんばってみた。
同じ日、所用で出た市内中区三川町あたりは、広島の浴衣の着始めとかいう「とうかさん」(7.8.9日)が始まっていて、大混雑だった。曇天、4時過ぎには雨模様。
6月1日(土)午前2時過ぎ、階下のSの様子が気になり下りてみる。体温37.8度から37.5度。ベッドの防水シーツ、衣服は排尿で濡れている。服を脱がせて体を拭き着替えさせる。シーツも換える。
朝9時前、再び、シーツ、衣類等排尿で濡れている。全て換える。
Sが、尿や水、汗などでべたつく体を流したいと、シャワーを浴びる。体温、37.8度前後。
訪問看護師に電話。看護師の指示で私が持っていたカロナール500㎎を服用させる。
お昼過ぎ、訪問看護師に来てもらう。熱は37度台。
夜になって、発熱は38.3~38.7。
翌日、カロナール服用もなかなか効かない。昼には体温38.9度まで上がる。
看護師と相談し休日救急医(内科)へ。
車で20数分。
検査の結果、2度目のコロナ陽性。
日曜から木曜まで5日間自宅で安静にしておくようにと言われる。
点滴。ピーエイ配合錠(毎食後)、ラスビック錠(夕食後)をそれぞれ2日分処方。
カロナールと併せ服用指示。
夜10頃から熱下がり始める。36.6度。
翌月曜、3日。熱次第に下がる。36.6前後で落ち着く。
少し咳は残ってる。
朝、訪問看護師来られる。肺の状態は問題なさそうとのこと。
血圧、酸素量とも問題ない。
私の体温は36度前半から35度台まで。夕方36.8度。体調はすぐれない。
軽い咳。倦怠感。(もしかしたら私もコロナ菌を持っているのかも。)
S,体調良くなってくると、ごそごそと落ち着かない。
(4日朝~)
Sの体温は36.3度。峠は越えたようだ。
私の体温も36.3度。ただ喉がいがらっぽく、からだがだるい。
<メモ>
2024年5月19日日曜日。薄曇。
朝7時半自宅出発。
ほぼ一般道を走る。久しぶりにR54で広島から島根へ県境をこえる。
11時半、荒神谷遺跡。12時45分発~13時、加茂岩倉遺跡着
14時、加茂岩倉遺跡発
15時、出雲大社に隣接する「古代出雲歴史博物館」着、
特別展「誕生、隠岐国」最終日。
常設展にて、荒神谷で発掘された本物の銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個。加茂岩倉で発掘された銅鐸39個と対面。壮観!!
出雲大社お参り。
稲佐の浜に立ち寄る。
出雲17時49分発。自宅21時47分着。
*帰路、大田から川本町に到る道がよく分からず、R261も一部通行止めの為、結局、浜田から浜田自動車道を大朝まで走り、一般道で帰宅。
走行距離467.4㎞。
行き当たりばったりのぼっちドライブも楽しいもの。
*R261は桜江大橋の先から川本大橋まで、一部土砂崩れで通行止め。
*荒神谷遺跡:1983(S58)年発見。古墳時代の遺跡。弥生時代の銅剣、銅矛、銅鐸発掘。
*加茂岩倉遺跡:1996(H8)年発見。弥生時代中期から後期の銅鐸発掘。
以前からの傾眠は、日ごとに強くなる。起立性低血圧は取り敢えず影を潜めたが、日中、血圧は下がらないままでうつらうつら。概日リズムの乱れに拠るのだろうか。自律神経の失調だろうか。
そして、朝から夜まで覚醒しない。それに加えて幻覚幻聴も貼りつく。
いずれも、パーキンソン病の代表的症状の一つではあるらしいが、介護の側からすれば、しんどい。
ただただ、しんどい。私にはどうしようもないのだが・・・。
今日も一日酷かった。朝、訪問看護師、ケアマネージャー、そしてKのお姉さんにも電話するなど。私はただひたすら疲れ果てる。(介護者である私、どうしても感情的になってしまう。)
明け方、喉に針があると騒ぐ。どう見てもそんなものは無い。多分、口の中が乾いて、ひりひりとしているのではないかと思われる。Kは普段から無呼吸症候群があり、ほぼ一晩中口を開けたままで眠って居る。それによって様々な症状を併発する。これまでも、無呼吸症候群については、色々処置をしたが効果は無いし、本人も詳しい検査など受けようとしない。
血圧や酸素量、体温などはほぼ問題ないのだが、とにかく本人が言うことを聞いてくれない。目を覚まさない。恐らく夜、充分な睡眠をとっていないと思われる。
急遽。看護師さんの力を借りて、紙おむつを換え、車に乗せ、午前11時近くやっとデーサービスに送って行く。
4月3日午前7時58分(日本時間8時58分)、台湾花蓮県海域で発生したマグネチュード7.3の地震で、4日現在、死者10人、負傷者1100人、連絡がつかない人が約10人、そして約700人が孤立。山崩れや建物崩壊など大きな被害が出ています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。また、被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。
今から十数年前の初夏(2012.6.9)、台北から花蓮まで電車に乗って一人旅をしたことがあります。電車内では、たまたま乗り合わせた台北から太魯閣へ向かう家族と話が弾み、私の拙い中国語に付き合ってもらった記憶があります。また、花蓮では、レンタサイクルで郊外まで足を延ばしました。
こんな形で花蓮を思い出すことになるとは・・・。
花蓮県や被害に遭われた地域の人々の暮らしが、一日も早く元に戻りますように。
あの花蓮の旅の記念に花蓮駅で買い求めた、マグネットを眺めながら心からそう思います。
灯浮標29の続き。
14日、行きつけのクリニックでSのリハビリ&問診。
起立性低血圧に対応して、降圧剤を減薬。
Sがこれまで飲んでいた降圧剤は、アムロジピンOD錠5mgとオルメサルタンOD錠10㎎。
これの内、アムロジピンOD錠を2.5mgに減薬することに。
夜、Sのお姉様にSの現況などショートメッセージで送信。あなたの思うようにしてくださいと返信。(まあ、分かってはいるが正直気分は・・・・・である。辛い。孤立感だけが募るわけで。)
夜から15日朝方にかけて、相変わらずSの幻覚酷く、私を呼び続ける。眠れない。
(以下の文章は、2024年2月10日に私が作成したものです。改めてここに投稿します。)
「没後32年、殿敷侃の眼差しを想う」
2月11日は環境アーチスト殿敷侃(とのしきただし)の命日だ。1942年広島市に生まれた殿敷は、1945年8月6日広島に原爆が投下されたその日、母と共に父を捜して広島市内に入り、二次被爆している。
長じて1970年には殿敷の油彩「は(2)」が「朝日ジャーナル(12月6日号)」の表紙に採用され、社会的にも注目を浴びる一つの契機となった。
彼の作品は油彩画、シルクスクリーン、インスタレーションなど多岐に渡り、環境アーチストとして活動の場は広島から国内外に広がっていた。油彩「自画像の風景」、シルクスクリーン「ケロイド」「爪」、インスタレーション「まっ赤にぬられてヒロシマが視えた」「タイヤの生る木」、そして、移り住んだ山口県長門の海岸で、多くの賛同者と共に行ったインスタレーション「山口ー日本海ー二位ノ海、お好み焼き」など、極めて刺激的だ。
遺された映像や作品は、私に「平和」、「環境」そして「いのち」について問い掛けてくる。私は、殿敷の眼差しの先には決して諦めない未来への希求があったと思う。1992年、50歳で世を去った彼の絶筆「僕は夜明けを信じた」が、時代を越えて生き続ける彼の作品群と共に私の心を揺さぶる。そして日々の暮らしに追われ老いの前に右往左往する私の背中を、今もなお明日へと押し続けてくれる。(2024.2.10)
追記:
今日3月11日は、東日本大震災の起きた日。あれから13年。だが、その傷は未だ大きく癒えてはいない。汚染水の問題も解決していない。さらに、今年1月1日に起きた令和6年能登半島地震は、未だ多くの被災者が避難し、水道などのインフラも一向に復旧していない。志賀原発も故障した。
あの長門の海岸に打ち寄せる波、そして海は、遥か日本海の対岸ユーラシア大陸にも打ち寄せる。そして大陸を西に辿れば、ウクライナとロシアの戦禍が待ち受ける。更に西に向かえば、パレスチナの地。イスラエルの砲撃が止まないガザ地区がある。
世界は、未だまっ赤に塗られてある。
殿敷の信じた未来は今此の地、そして地球には無い。
(メモ)
先週2月27日火曜、2年ぶりに胃カメラ検査。自覚症状があってと言うわけではなく、市が勧める胃がんの定期検診。そして、そのとき、前回と比べて一部ポリープに変化が見られるという事で、ポリープを二か所つままれて病理組織検査。その結果を今日、行きつけのクリニックで聞いた。結果は、胃底腺ポリープと、過形成性ポリープで、腺腫性ポリープとは異なり、今のところ胃がんのリスクは考えなくても良いとのこと。ただ、両方とも慢性炎症細胞浸潤が認められる。特に過形成性ポリープの方は、私の目にも炎症が確認できた。それで今度はピロリ菌の検査もしましょうと、さらに血液検査!の日でありました。実際、2年前の検査時と比べて同じ個所のポリープの数が格段に増加している・・・。
診察の後、最近市内に新しくできた私立の屋内プールで、少し泳いだ。
屋内プールは映画「ドライブ・マイ・カー」のロケ地にもなった、海岸端にある中工場に隣接しており、雨の中、中工場にも少し立ち寄ってみた。海鳥が一羽、海中に潜って中々浮上してこない。凄い心肺機能だ。
因みに、今回、別の行きつけクリニックで肺がん、大腸検査も行っているが、いずれも問題は無かった。
これらとは別に、先月、泌尿器科で半年か一年ごとに検査している前立腺癌の検査(PSA値5.77で、前回とは少し上昇している。)その結果から更に来月辺りMRI検査も言われており、まあ、年相応、老化の典型的コースに乗っかっているということか。(一般成人男性の2倍と言う前立腺肥大のレーザー手術も考慮したらと、やんわり勧められているわけで。)
未明から雨。庭の梅の花が雫を垂らしている。
(2024年3月5日(火)。啓蟄、記)
(メモ)
2024年3月2日(土)
県民文化センターホールにて。
毎年恒例(コロナ禍で一時中断)のパーキンソン病講演会が開催されました。
講演1「これから上手に付き合うための パーキンソン病の話」
(Yクリニック院長 Y先生)
講演2「パーキンソン病の最新の外科的治療」
(O大学病院 S先生)
講演3「薬学教育研究者として、パーキンソン病患者となって見えてきたこと、考えたこと」
(K大学名誉教授 K先生)
当日は朝からドカ雪。春の雪。にも拘らず、ほぼ満席の盛況でした。
SとS所属していたパーキンソン病患者によるコーラスグループの有志、そして私や友人のK君、ほかにメンバーの友人、知人など十数人で講演1と講演2の間の休憩時間にステージに立ち3曲ほど歌いました。
曲目「パーキンソングを歌いながら」(オリジナル曲)
「春の小川」「ふるさと」
ステージに立つのは5年ぶり。Sはスピーチもどうにか無難にこなしました。
休憩時間にも拘らず、会場内のお客様は殆ど席を立つことなく、熱心に聴いておられ、中には一緒に歌われる方など。大きな拍手もあり当事者も嬉しかったようです。
翌3日、ひな祭りも朝から雪がちらつく天気でした。