日記 Feed

2015年1月11日 (日)

記録:翻訳して纏めました。「背影、春、その他」(朱自清作品集<一>)

<記録>

昨年末2014年12月28日付。

中国を代表する散文家、詩人「朱自清」の作品を数編翻訳し、小冊子にまとめました。

ホッチキスで綴じ製本テープを張っただけの極めて簡易なものですが、

28部作成し、親しい友人、知人へ配りました。

その目次を記しておきます。

朱自清作品集<一>  「背影、春、その他」

 <散文>

 ばたばた(原題:匆匆)                 

 背影(原題:背影)                    

 月下の蓮池(原題:荷塘月色)                          

 (原題:                     

 

 <詩>

 新年(原題:新年)                     

 除夜(原題:除夜 

 

 ***

 あとがき

*尚、散文の「月下の蓮池」と詩2編以外は、既に本ブログで内容を公開しています。

 

Photo

2015年1月 7日 (水)

初夢のような。&ジェロ「Break My Heart」動画!

今年の初夢は5日の朝方。

久し振りに両親。二人そろって笑顔で登場は、二人が旅立って初めてかも。

父は、この夏で9年。母は、今月9日で丸5年。

夢のストーリーも、まだかなり覚えているけれどね。

さて、お話変わって、

ジェロさんの「Break My Heart」のライブ映像がネットにアップされていましたのでご紹介。

演歌歌手ジェロの初作詞(英語)R&B!

この心震える切なさを、おすそ分け!しかもライブ動画で!!!

youtu.be/xex0HZOrE7c  @YouTube

ただ今、大好評配信ちう!

2014.11.25 @ビルボードライブ大阪 オールジャンルライブ・スペシャルステージ2014
実は、このライブステージ私も観ているけれど、2回公演で私は1stステージ。
この動画はどっちだろう?
(ダウンロードはこちらからもOK.)

2015年1月 6日 (火)

犬の残り香。

12月大晦日、日付が変わるころから降り始めた雪は、元旦、朝には積もり始めていて、夕方には20センチ近くに。翌日午後出かけたものの、夕方、雪は吹雪きに。

団地の登り口の坂道手前の信号でいったんストップしたものだから、再発進時にはズズっとスリップ。それでも何とか帰宅。3日はどか雪。4日どうにか路面は日陰を除いて溶け始め。

5日、外出できました。

こんな雪の多い正月はほぼ20年ぶりくらいかなあ。

遊びに来ていた友人も昨日帰宅。今日6日は昼過ぎまで雨でしたが、午後には晴れ間。

家の片づけ、掃除に追われて、ぐったり。

あ~しんど。

2015年1月 1日 (木)

未来の種子!

夜のとばりは重く、 大地を覆っている。

新年は翅を開き始めている。

ああ!なんと麗しく鮮やかな赤い翅!

彼女の口には深く澄んだ黄金の粒―

 「未来」の種子。

(朱自清「新年」より:拙訳)

2015年、世界中に幸多くありますように。

2014年12月20日 (土)

朱自清の「父の背中(原題:背影)」を、私の翻訳でご紹介します。

12月16日の夜から降り始めた雪は、我が家の庭先では18日までに30センチほど。

19日は久し振りの青空だったのですが、雪は溶けず。

20日の今日は朝から雨。やっと、路面が見え始めています。

私の家のあたりでこんなに雪が溶けないのは、この10年記憶がありません。

さて、今年は朱自清の作品をご紹介していますが、春の「春」、秋の「ばたばた」に次いで、冬は「父の背中」です。

ではどうぞ。

「父の背中」(原題:「背影」 )        朱自清

 私と父はもうニ年余り会っていない。私が忘れることのできない記憶は、父の背中にある。その年の冬、祖母が亡くなった。泣きっ面に蜂で、父は職を失っていた。私は北京から徐州に着いた。そこで父と落ち合って祖母の家に帰り、葬儀の支度をするつもりだった。私は徐州で父と会った。父の住まいは荒れ果てていた。私はそこでまた祖母を思い、涙が頬を伝うのだった。父は言う。「過ぎたるはかくの如し、なんの困難があろうか、天に人の道の絶えざるは無し」と。

祖母の家に帰ると、あれこれ質に入れてお金を工面したのだが、それでも父はまだ借金をしなければならなかった。その借金で葬儀の費用を賄った。数日というもの、家の中は惨憺たる有り様だった。それは、一つは葬儀の為、また一つは父の無職であるがゆえのことだったのだが。葬儀が終わり、父は職探しの為に南京行きを算段した。私もまた勉強の為に、北京へ帰らなければならなかったので、私たちは一緒に発った。

 南京に着くと、その地の友人と街に出て、一日を過ごした。二日目は午前の便で長江を渡り浦口へ。午後、ここから北京行の汽車に乗る。父は、忙しいので私を送らないと言っていた。ちょうど宿に父と旧知のボーイが居り、私のことを任せようとしたのだった。父は事の仔細を話して、ボーイにあれこれ私のことを頼み込んでいた。しかしながら、結局のところはボーイを信頼できないのか、不安は隠せない様子だった。だが実際、私はその時、既に二十歳で、北京とニ、三回は往復していたし、特に急がなければならない旅でもなかった。父は、思案の挙句、結局、父もまた私を駅へ送って行くことにした。私は何度も父に、その必要はないと言ったのだが、父は「大丈夫、それにあいつらにお前を任せるわけにはいかないから」と、言うのだった。

 私たちは長江を渡ると、駅に向かった。私は切符を買い、その間も、父はせわしなく荷物を見ていた。多過ぎる荷物のため、ポーターに幾ばくかのお金を渡して、その荷物を運ばせようとした。父はせわしなくその金額を掛け合っていた。私は、その時はまだあまりにも世間知らずだったのだろう、父のその値段交渉といったらみっともなく見え、かといって、私にはどうしても口を挟むことが出来なかった。父はどうにか金額を決めると、私と汽車に乗り込んだ。父は入り口の椅子を私の席に決めた。私は、父が確保したその席に、紫色のオーバーコートを敷いて、座り心地を整えた。父は、周囲に油断をしないように、そして夜はよく眠れないだろうから風邪をひかないようにと、言った。私の面倒を見るようにか、ボーイにまた何やらくどくど頼んでいた。私は心の中で、父の度を越した心配性を嘲笑った。ボーイやポーターは父のお蔭で濡れ手に粟、幾ばくかの小遣い銭をせしめた。彼らにとっては思いがけない儲けだったに違いない。しかも私ときたら、もういい年をしているにもかかわらず、自分の目の前の蠅が追えないのだ。ああ、今にして私は思う。あの時私は、傲慢なばかりで何も分かってはいなかったと。

 「お父さん、もう行ってください」と言う私の言葉には応えず、父は汽車の外を見て「蜜柑を買って来る。お前はここに居なさい。動くんじゃないぞ」と言った。私が目を遣ると、ずっと向こう側のプラットホームの柵外で物売りが客を待っていた。蜜柑を手に入れるには、そのプラットホームまで辿り着かなければならない。線路を跨ぎ、柵の外へ飛び降り、それからまた柵をよじ登るのだ。父は太っていた。そこまで行くには些か時間がかかった。私が行けばよかったのだろうが、父がそれを許す訳もなく、父は既に行動を起こしていた。私は、父が被っている黒い布製の小さな帽子を見た。それから黒くて大きな上着を見た。丈の長い紺の綿入れを見た。父は、よろよろと線路脇へ辿り着いた。ゆっくりと身を乗り出した。それはまだよかった。問題はそこからで、父は線路を跨ぎ、それからプラットホームの柵をよじ登るのだ。それは容易な事ではなかった。父は両手で柵にしがみつき、両足をばたつかせていた。父の太った体は、左へ僅かに傾いた。力の限りあがいている様子が見て取れた。私は、この時、父の背中を見ていた。私の目に涙があっという間に溢れてきた。私はあわてて涙を拭った。父に気付かれることは無く、周りの人々にも気付かれること無く。私が再び目を上げたとき、父はもう朱(あか)く熟れた蜜柑を抱えてこちらへ向かっていた。線路を跨いで、蜜柑を地面に一旦置き、ゆっくりとホームに上がると、再び蜜柑を抱えた。こちらへやってきた父の体を、私はホームに出て支えた。父と私は連れだって車内に戻った。それから、父は蜜柑を私の皮のジャンパーに押し付けた。ジャンパーに付いた泥を払うと、私の心の内はなんだか軽くなった。父が口を開いた。「じゃあ私は行くから。あっちに着いたら手紙を書きなさい」。私はその時、父が車内から一刻も早く出て行ってくれたらと願った。父は数歩歩いて振り向いた。父は言った。「さあ、自分の席に戻りなさい。荷物を置いたままじゃないか」。私は、父の背中が人混みに紛れるのを待った。もう父を探さなくても良いのだ。私は席に戻った。私の目に涙がまた溢れてきた。

 ここ数年来、父と私は東奔西走で、家の状態と言えば、ますます悪くなるばかりだった。父は若くして家を出て働き、一人で身を立てていた。多くのことを成し遂げたのだった。だが、老境を知ってから全くもって意気消沈した。父は、時に、自分ではどうにもこうにも思うようにならない自分の感情に、苛立つ。家の、こまごまとした些事にさえ、父の怒りは触れるのだ。父はもう昔の父ではない。その父に私は、ここ数年会っていない。それでも父は、あれやこれやと私を思い遣り、私の子供を心配する。私が北京に行ってから、父は私に手紙を一通寄越した。手紙の中で父は、「体は大丈夫だが、ただ肩が痛い。箸や筆の上げ下げが辛いし、それがはなはだ不便だ。この世を去る時も、そう遠くはない」と。私はここまで読むと、私の透明な涙の中に、また、あの太った父の姿が浮かぶ。青い綿入れ、黒い上着の背中。ああ!私はまたいつ父に会うことが出来るのだろうか!

(一九二五年十月北京にて)

 

*底本「朱自清散文集」百花文艺出版社

(訳:洋文 2014.1130

 <転載、引用厳禁!>

2014年12月 5日 (金)

朝から雪。

12月に入って毎日のように雪。

今朝は、ついに積もり始めています。

思い雪です。

いよいよ本格的な冬到来。

2014年11月13日 (木)

出雲、石見路。2014年、初冬。

<雨の出雲へ>

今週の日曜日(11月9日)、ふと思い立って、雨の中、出雲大社まで車を走らせました。往路は、中国自動車道から三次へ降り、R54経由で出雲まで。 赤名峠は紅葉がピーク。赤や黄が雨に滲んでいました。 お昼ちょうどに出雲大社に到着したのですが、激しい雨にもかかわらず、日本各地から多くの参拝客が訪れていました。スターバックスもあったりして、すっかり縁結びのパワースポット。私は、もう何十回となく訪れているものの前回が10年以上前。その間に、周辺を合わせて、かなり様変わりしていました。

... お参りした後、色々と思い出深い鷺浦、鵜峠(ここへの道は狭く勾配もきついのでお勧めしませんが。)へ。それから日御碕へも足を延ばしました。

日御碕までは出雲大社から車で僅か15分程度にも拘らず、大社周辺の喧騒が嘘のよう。駐車場も日御碕灯台への遊歩道も閑散としていました。 「雨だから?」って、土産物屋さんの店頭で暇を持て余しているおばあちゃんに聞くと、「いや、いつもこう」だそう。 いいところなのにね。せっかく出雲大社までお越しになったのなら、日御碕へもおいでになればいいのに。 私は、雨が小降りになるのをその店先で待って、それから日御碕灯台のてっぺんへもえっちらおっちら上ったのでしたが、あれだけ降っていた雨が、私が上りきるのを待っていたかのように止み、薄日さえ差し始めたのでした。 ちなみに、経島(ふみしま)にウミネコが飛来するのは、12月になってからだそうです。

雨が上がったので、海岸沿いを、しばらく走りました。

松江道も開通し、浜田道と併せて、まあ当たり前と言えば当たり前ですが、この10年で物資の流れもすっかり変わってしまったなあと、感慨深いものがありました。

降っても晴れても出雲路、皆様もどうぞ。

Photo

2014年10月28日 (火)

ジェロさんで、「黄昏」をどうぞ。

ずいぶん日が短くなりましたよね。

もう、山かげに日は落ちちゃいました。

今年はいつもより紅葉が1週間から10日ばかり早いような。

風邪がはやり始めます。

暖かくして。そう、心もあったかくね。

ジェロ「黄昏」

http://v.youku.com/v_show/id_XMTY3MDI2MzQ0.html …

実は心にグッサリと来る歌詞があったり・・・。

この時期は、つい聴きたくなるわけで。

ジェロ 「なきむし倶楽部」|フル動画GyaO!|音楽 http://gyao.yahoo.co.jp/player/00091/v07945/v0994000000000542786/‪#‎GyaO

http://jero.jp

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2014年9月22日 (月)

広島市の2014年8月20日未明に起きた土砂災害から一か月。


8月20日で、広島市の土砂災害からちょうど一か月。
最後の行方不明者が発見されたのが9月18日・・・・。

死者74人。

未だに多くの方々が、途方に暮れている現実。

これほど大きな被害、犠牲者は、すくなくとも平成になってから初めてではないかと思います。
地元の報道に見る限りでは、広島市、広島県の今回の災害にかかる諸対応について、正面からの批判はほとんど見受けられません。
報道の多くは、犠牲者の悲しみと、ボランティア活動に割かれています。これはこれでとても大事であるとは思いますが、同時に、行政の行ってきたことへの言及、追及も忘れてはなりませんね。
広島県は、全国で最も危険個所の多い県。このことは、私でも早くから知っていました。

今回は、人の命を預かる組織にしてはあまりにもお粗末な、まったく怠慢と言っても言い過ぎではない、様々な不手際やミスも指摘されています。

行政の諸組織の、災害時の対応の遅れなど、様々な問題は、厳しく検証されなければならないと思います。

2014年8月28日 (木)

夕焼けは夏の季語。

友部正人「一本道」

http://youtu.be/E8DgYD8enPw