朱自清の「父の背中(原題:背影)」を、私の翻訳でご紹介します。
12月16日の夜から降り始めた雪は、我が家の庭先では18日までに30センチほど。
19日は久し振りの青空だったのですが、雪は溶けず。
20日の今日は朝から雨。やっと、路面が見え始めています。
私の家のあたりでこんなに雪が溶けないのは、この10年記憶がありません。
さて、今年は朱自清の作品をご紹介していますが、春の「春」、秋の「ばたばた」に次いで、冬は「父の背中」です。
ではどうぞ。
「父の背中」(原題:「背影」 ) 朱自清
私と父はもうニ年余り会っていない。私が忘れることのできない記憶は、父の背中にある。その年の冬、祖母が亡くなった。泣きっ面に蜂で、父は職を失っていた。私は北京から徐州に着いた。そこで父と落ち合って祖母の家に帰り、葬儀の支度をするつもりだった。私は徐州で父と会った。父の住まいは荒れ果てていた。私はそこでまた祖母を思い、涙が頬を伝うのだった。父は言う。「過ぎたるはかくの如し、なんの困難があろうか、天に人の道の絶えざるは無し」と。
祖母の家に帰ると、あれこれ質に入れてお金を工面したのだが、それでも父はまだ借金をしなければならなかった。その借金で葬儀の費用を賄った。数日というもの、家の中は惨憺たる有り様だった。それは、一つは葬儀の為、また一つは父の無職であるがゆえのことだったのだが。葬儀が終わり、父は職探しの為に南京行きを算段した。私もまた勉強の為に、北京へ帰らなければならなかったので、私たちは一緒に発った。
南京に着くと、その地の友人と街に出て、一日を過ごした。二日目は午前の便で長江を渡り浦口へ。午後、ここから北京行の汽車に乗る。父は、忙しいので私を送らないと言っていた。ちょうど宿に父と旧知のボーイが居り、私のことを任せようとしたのだった。父は事の仔細を話して、ボーイにあれこれ私のことを頼み込んでいた。しかしながら、結局のところはボーイを信頼できないのか、不安は隠せない様子だった。だが実際、私はその時、既に二十歳で、北京とニ、三回は往復していたし、特に急がなければならない旅でもなかった。父は、思案の挙句、結局、父もまた私を駅へ送って行くことにした。私は何度も父に、その必要はないと言ったのだが、父は「大丈夫、それにあいつらにお前を任せるわけにはいかないから」と、言うのだった。
私たちは長江を渡ると、駅に向かった。私は切符を買い、その間も、父はせわしなく荷物を見ていた。多過ぎる荷物のため、ポーターに幾ばくかのお金を渡して、その荷物を運ばせようとした。父はせわしなくその金額を掛け合っていた。私は、その時はまだあまりにも世間知らずだったのだろう、父のその値段交渉といったらみっともなく見え、かといって、私にはどうしても口を挟むことが出来なかった。父はどうにか金額を決めると、私と汽車に乗り込んだ。父は入り口の椅子を私の席に決めた。私は、父が確保したその席に、紫色のオーバーコートを敷いて、座り心地を整えた。父は、周囲に油断をしないように、そして夜はよく眠れないだろうから風邪をひかないようにと、言った。私の面倒を見るようにか、ボーイにまた何やらくどくど頼んでいた。私は心の中で、父の度を越した心配性を嘲笑った。ボーイやポーターは父のお蔭で濡れ手に粟、幾ばくかの小遣い銭をせしめた。彼らにとっては思いがけない儲けだったに違いない。しかも私ときたら、もういい年をしているにもかかわらず、自分の目の前の蠅が追えないのだ。ああ、今にして私は思う。あの時私は、傲慢なばかりで何も分かってはいなかったと。
「お父さん、もう行ってください」と言う私の言葉には応えず、父は汽車の外を見て「蜜柑を買って来る。お前はここに居なさい。動くんじゃないぞ」と言った。私が目を遣ると、ずっと向こう側のプラットホームの柵外で物売りが客を待っていた。蜜柑を手に入れるには、そのプラットホームまで辿り着かなければならない。線路を跨ぎ、柵の外へ飛び降り、それからまた柵をよじ登るのだ。父は太っていた。そこまで行くには些か時間がかかった。私が行けばよかったのだろうが、父がそれを許す訳もなく、父は既に行動を起こしていた。私は、父が被っている黒い布製の小さな帽子を見た。それから黒くて大きな上着を見た。丈の長い紺の綿入れを見た。父は、よろよろと線路脇へ辿り着いた。ゆっくりと身を乗り出した。それはまだよかった。問題はそこからで、父は線路を跨ぎ、それからプラットホームの柵をよじ登るのだ。それは容易な事ではなかった。父は両手で柵にしがみつき、両足をばたつかせていた。父の太った体は、左へ僅かに傾いた。力の限りあがいている様子が見て取れた。私は、この時、父の背中を見ていた。私の目に涙があっという間に溢れてきた。私はあわてて涙を拭った。父に気付かれることは無く、周りの人々にも気付かれること無く。私が再び目を上げたとき、父はもう朱(あか)く熟れた蜜柑を抱えてこちらへ向かっていた。線路を跨いで、蜜柑を地面に一旦置き、ゆっくりとホームに上がると、再び蜜柑を抱えた。こちらへやってきた父の体を、私はホームに出て支えた。父と私は連れだって車内に戻った。それから、父は蜜柑を私の皮のジャンパーに押し付けた。ジャンパーに付いた泥を払うと、私の心の内はなんだか軽くなった。父が口を開いた。「じゃあ私は行くから。あっちに着いたら手紙を書きなさい」。私はその時、父が車内から一刻も早く出て行ってくれたらと願った。父は数歩歩いて振り向いた。父は言った。「さあ、自分の席に戻りなさい。荷物を置いたままじゃないか」。私は、父の背中が人混みに紛れるのを待った。もう父を探さなくても良いのだ。私は席に戻った。私の目に涙がまた溢れてきた。
ここ数年来、父と私は東奔西走で、家の状態と言えば、ますます悪くなるばかりだった。父は若くして家を出て働き、一人で身を立てていた。多くのことを成し遂げたのだった。だが、老境を知ってから全くもって意気消沈した。父は、時に、自分ではどうにもこうにも思うようにならない自分の感情に、苛立つ。家の、こまごまとした些事にさえ、父の怒りは触れるのだ。父はもう昔の父ではない。その父に私は、ここ数年会っていない。それでも父は、あれやこれやと私を思い遣り、私の子供を心配する。私が北京に行ってから、父は私に手紙を一通寄越した。手紙の中で父は、「体は大丈夫だが、ただ肩が痛い。箸や筆の上げ下げが辛いし、それがはなはだ不便だ。この世を去る時も、そう遠くはない」と。私はここまで読むと、私の透明な涙の中に、また、あの太った父の姿が浮かぶ。青い綿入れ、黒い上着の背中。ああ!私はまたいつ父に会うことが出来るのだろうか!
(一九二五年十月北京にて)
*底本「朱自清散文选集」百花文艺出版社
(訳:洋文 2014.11.30)
<転載、引用厳禁!>
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