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2023年4月18日 (火)

「越えられない歴史 林亨泰詩集」読了。

(メモ)

台湾現代詩人シリーズ③「越えられない歴史 林亨泰詩集」(三木直大編訳 思潮社刊)読了。

*林亨泰(リンホンタイ 台湾 1924年~)

2023年4月16日。昼過ぎから雨。久しぶりに、一人でウッドワン美術館へシャガールを見に行きました。(ウッドワン美術館(Hiroshima Yoshiwa)「POWER OF COLORS シャガールを中心に」2023.3.18~5.21)

山里はもう田んぼに水が張られて田植えの準備。帰りに佐伯町の津保美堂で二重焼購入。

2023年4月 5日 (水)

4月5日清明節。お昼前からぽつぽつ、雨。

昨日は、以前から医師に勧められていた、心臓エコーを撮りにクリニックへ。

経胸壁心エコー、結果は相変わらず僧房弁から血液の逆流が若干みられるものの、日常生活には支障なしとのこと。

また、心電図はこちらも針が触れるところがあるものの、これも以前からの事で大丈夫。

胸部X線画像も問題無し。

また血液検査から心不全の恐れも無し(NT-proBNP値は基準値18.4より下)。

医師からは、年齢的に心臓は鍛えられないし年相応に無理のない生活をしていればいいと言われる。年に一回程度はエコー検査を勧められる。

今日4月5日は、清明節。と言う訳ではないのだが、先日に続いて短歌一首。

 石走る谿間を行けば家廃れ

 山桜かな山桜哉     永洋(2023.4.3)

私なりの山水画の世界です。

下の句の詠嘆「山桜哉」だけが三十数年前(!!)から脳裏にあり、それを使いたくてその言葉だけを長く反芻していたのですが、数日前、久しぶりのジョギング中に、すんなりと全体が出来上がりました。まあ、万葉集にあるこの季節の枕詞を使った素直極まりないそれですが。

2023年4月 2日 (日)

降りしきる涙も痛し清明夜 一人の寂寥二人の孤独。(永洋)

音楽家 坂本龍一さんが、先月、3月28日(火)に71歳で亡くなられました。心からお悔やみ申し上げます。

短歌、近作四首をここに記します。(永洋)

降りしきる涙も痛し清明夜

一人の寂寥 二人の孤独   (2023.2.18)

  *清明は4月5日ですが詠んだのは2月。まあいいか、です。

情よりも術を知りたし日々のこと

懲りず怒らずあなたと暮らす (2023.3.8)

急かされて蕗の薹摘む蓬摘む

天から降りし母と並んで   (2023.3.18)

問われれば沸き立つ花の苦しくて

ソメイヨシノの春は嫌いと  (2023.4.1)

2023年3月16日 (木)

大江健三郎の訃報を知って。(日差しの中で、記憶は見真講堂から遠く。)

ネット検索によれば、広島市中町に曾てあった見真講堂は1998年閉館と、中国新聞の記事にある。その見真講堂で開催された大江健三郎(1935~2023)と井上光晴(1926~1992)の講演会に出かけたことがある。大江健三郎が「洪水はわが魂に及び」(1973年 新潮社刊)を、そして井上光晴が「心優しき反逆者たち」(1973年 新潮社)を出版して、おそらく数年後か或いは直後、私が20代半ば、大阪から広島に帰ってすぐだったか・・・(いや、大阪へ出る直前か?)。講演会の内容は、もうほとんど全くというほどに覚えてはいない。ただ、大江が「ヒロシマノート」(1965年 岩波新書)に言及し、井上が「虚構のクレーン」(1960年 未来社刊)に言及し、とりわけ虚構と事実、事実と真実に執拗な程に拘っていたような記憶が、あるにはあるが、その具体的な内容は全く覚えていない。(付け加えれば、人選からして、それぞれの近著出版元である新潮社主催だったかもしれないが、確証はない。)

さて、大江健三郎がこの3月3日午前3時過ぎに亡くなった。新聞記事には老衰、88歳とある。今、微かな人生の記憶と押し寄せる様々な重力の洪水の中で、私は、しばし感慨にふけった。感慨にふけるぐらいは許せるだろうと、自答しながら。

道を挟んで見真講堂のほぼ向かいには宿泊施設「法華クラブ」(ホテル法華クラブ広島が正式名称のようだ。それは今もそこに在る。)があった。そしてその道のどちら側かを、どういう経緯だったか高校時代の同級生W君と歩いたことがある。W君とは拠って立つ思想信条が異なっていたような気がするが、それは高校生時代の事、私に限ればいい加減不確かであいまいなそれであった。だが、W君のその磁場は私には及ぶべくもない強固なものであったような。夏だったのか日差しが暑く、そして強かった。私たちは日に晒されながら歩いていた。私に歩調を合せてくれていたW君が、ふと私に「日陰を歩けばいいのに」と言ったのだが、その彼の一言だけが私の記憶の底に沈んで今も剥がれない。同じその頃と言っても講演会からは数年後だったと思うが、いずれにせよかなり遠い。もう遥か遥かのことである。

話が外れた。・・・決して氏の熱心な読者ではない私が最初に読んだ作品は「死者の奢り」(1957年、文学界初出)。それから幾つかの作品を読んだ。そして今日までに距離は随分と離れてしまっていたのだ。願わくば、高みにて静かな日々を送られますように。

「大江健三郎さん死去」のトップニュースが載った同じ中国新聞第1面(2023年3月14日(火)付)には、並んで「袴田さん再審決定(13日)」の記事がある。袴田巌さんは現在87歳。その歳月の果てしなさ!!一日も早い再審開始と、無罪判決を!(尚、東京高検が最高裁に特別抗告の方向で検討との記事が中国新聞17日付にある。権力の横暴に言葉を失う。)

2023年3月 8日 (水)

泳ぐ。

3月6日は啓蟄。次第に暖かくなってくるのを実感する。

3月7日火曜日。忙しない一日。Sをデーサービスに連れて行く。

区民プールで20分程度、ゆっくりと泳ぐ。

十数人の利用者。平日もあって、その殆どは老人。まあ、私もその一人だなあと裸の自分を鏡に映してつくづく。

整形外科で週1回のリハビリ。相変わらず左腕が重いわけで。

それから、1ヶ月余り前に予約していた市内の病院へ。

受診は精神科。比較的若い先生が問診。ところがその担当医師、この4月には大学病院に戻られるという事で、なんだかなあ・・・

取り敢えずは、1時間近くカウンセリング。まあ、結局環境を変えない限り特効薬などないわけで。

分かってはいるのだが、Sとの関係性を変化させていくのは容易ではない。

次回カウンセリング予約をぎりぎり3月末に入れる。その後はどうなるか。

会計窓口で、何かの手違いがあったらしく、50分近く待たされる。

そんなもの、現実は。

精神科、心療内科で定評のある病院だけに、待合の人々は、本当に個性的なわけで、実は、十年近く前、生前、母も心療内科に通院していたのだが、そのころの空気感が甦る。

それなりに辛いのだ。この病院にコンタクトをとった私の気分を、誰が知るだろうか。

Sにも分かりはしない、きっと。

怒りを内包したまま、静かに介護を続けることなど・・・・出来るとは思わないのだが、私やSを知らない誰かに話しを聞いてほしいだけなのだろう。

処方箋は今回無し。

会話の中で出てきた医師の言葉を幾つか。

深呼吸。

マインドフルネス。

アンが—マネジメント。

統合失調症としてのパーキンソン病。

電気軽減療法、などなど。

今日8日、庭の梅が咲き始めている。鶯の啼声を聴いた。蛙も鳴いている。

去年からほったらかしにしていた庭木の剪定や枝、落葉の処理、今年に入って少しずつやってはいたのだが、今日やっと一段落。(今年の秋を思うと溜息。そもそも私はその頃元気かどうかとか。)

2023年3月 4日 (土)

そういえば、いつもの山肌にヤマブキはまだ咲いていなかった。

(メモ)

3月4日。少しと大分早いのだが、日程的に今日かなあと、お彼岸参り。

Sは今日から一泊でショートステイなのだが、送り届けた直後から、帰りたいと繰り返し々々携帯電話。

・・・・・・・。

往路、復路とも、少しだけ高速道を利用。

夕方、墓参から帰宅。体がふらつくほど疲れた。

2023年3月 2日 (木)

続・灯浮標3(2023.3.2)周辺から寄せ来る波。

Sの病気の事で、いつも親身になって相談に乗ってくださるW先生の病理検査の結果が分かり、W先生からメールが送られてきた。良性だったとのこと、先ずは一安心。先生もひとまずホッとされたご様子。たしか発見は昨年ほぼ一年前だったか。大腸がんだった。手術をされて、仕事をしながらの養生は色々大変だったようだ。

今日来られた訪問リハビリの作業療法士さんのおお母さんは咽喉癌の再発で近々また手術とか。

Sは、病院(W先生のリハビリ)の待合で、スポーツ新聞を眺めながら、日曜日の競馬のあれこれに思案を巡らせている。

夜は、ベッド周りの環境整備とか急に言い出して、私を困惑させる。

日中には止むはずだった雨は終日降ったり止んだりの天気雨。

朝は月に一度の訪問看護もあった。Sの体調に大きな変化はない。

まあ、しいて言えば、苛立つ私の疲労の蓄積が半端ないという事。

2023年2月28日 (火)

選択。整形外科にて。

今日2月終りは、4月の暖かさとか。

お昼12時からのリハビリを終えて、車の中で昼食。

そして2時半から受診。

先生は、MRIを撮ってみるか、それともこのままとりあえずは関節注射とリハビリを続けながら経過を診ていくか、などと。

全部で3つの選択肢を提示される。その中の一つは、まあ一番無難な注射とリハビリの継続。

1回目の注射は2月15日付のブログに書いている。

2回目(2月21日)は以下の通り。

左腕肩関節に。(状態が良くなった右腕は無し。)

アルツディスポ関節注25㎎ 1%2.5ml 1筒

カルボカインアンプル注1% 2ml 1菅

3回目の今日は1回目と同じ。(右腕は無し。但し左肩関節の注射位置が前回、前々回と微妙に異なる。)1回目同様の強い注射。

ケナコルト―A筋注用関節腔内用水懸注40mg/1ml 0.5瓶

カルボカインアンプル注1% 5ml 1菅

(数日の疲れが溜まっている。腕も体も、気分もだるい。)

安けりゃ何でもいいわけで、まずく冷たい缶コーヒーを飲みながら、帰った。

2023年2月27日 (月)

続・灯浮標2(2023.2.27)夢。

風雨に家が揺れ、壁もふわふわと膨らみ騒ぐ。私は痺れた足と痛む左肩、左腕を持て余しながら階下へ降りようとするのだがままならない。

すると、トイレに向かうSの姿が、階下に確認できる。そのSは私を見ると、一言、「君もパーキンソン病じゃないの」と声を掛けてくる。

そこで目が覚めた。夢だ。ただ、確かに足はだるく、肩も相変わらず痛いのだ。

Sは一昨日、昨日、今朝がたと、私を起こす時間帯は異なるものの、排尿などの介護が必要。からだの振顫も酷い。Sが私を呼ばなければ呼ばないで、熟睡も出来ない。

今年に入って、Sは競馬をやりたがる。私がネット投票をしてやる。結局は負けが込むのだが。

まあ、そう大金は注げないので、とりあえずは私の気持ちを抑えてはいる。

今日は、午後、Sの言語リハビリで、病院まで連れて行く。

夕方から夜にかけてひどく疲れている。疲れ果てている。

(追記)

夜9時過ぎ、Sをリビングから寝室のベッドに車椅子で移動させる。

それから1時間半ぐらいたったころ、酷く咳き込む声が、2階の私の部屋まで聴こえてくる。

階下に下りてみると、Sはベッドに座り込んで、激しく咳き込んでいる。どうも誤嚥のようだ。

昼間に飲みこんでしまった飴玉が喉の奥か気管の入り口に留まっていると言うのだが、よく分からない。お湯を飲ませる。しばらく様子を見る。咳が止まらないので、体の右を下にしてベッドに横たわらせて、背中をしばらく叩きつづけてみる。すると程なくおとなしくなって、眠り始めた。

灯りを消して部屋を出る。時間は夜11時過ぎ。それから更に日付が変わって3時過ぎ、Sの様子を窺うと、体勢は少し崩れていたが、ほぼ横向きのままでよく眠っている。

取り敢えずは落ち着いた様子だ。

2023年2月26日 (日)

若干のノスタルジーを込めて、エゴン・シーレのこと。

初めて私がエゴンシーレの存在を知ったのは、大島渚監督が、もうとっくに誌名も忘れたが確か雑誌のコラムか何かで、自身の好きな画家の一人としてエゴン・シーレの名前を記しておられて、そう言う偶然があったからだ。もう何十年も昔の事だ。

殆どその当時、あれもまた偶然なのだが、広島の街を歩いていて、京口門辺りに画廊があって、それはビルの狭い階段を上がった二階で、常設展だったような気がする。そこに、エゴン・シーレの小さな素描(まるで息を吐くような若い男の顔だったような)が一点掛けられていた。

しばらくその作品に見入っていた。そうしたら、画廊のオーナーらしき人物が、英語版のEGON SCHIELE図録を私に手渡し、差し上げますと。

それが今も手元にある。表紙にローマ字で小さくNAGATAの文字が読み取れる。その「ナガタ画廊」は今もあるのだろうか…。

今回、今更ではあるが、ページをめくっていて、その最後に色の褪せて薄っすらと染みのついた「友部正人コンサート」のチラシが挟まっていることに気がついた。

それには’82年3月21日(日)開演午後6時。ところ:ナガタ画廊、前売1,000円、当日1,200円とある。それで、私がシーレの作品を初めてみたのが27歳だったことが分かった。今からもう40年以上前の事だ。

次にエゴン・シーレを見たのが、ナガタ画廊での出会いから4年後、1986年5月17日~6月29日、奈良県立美術館で開催された「エゴン・シーレとウィーン世紀末」展でのことだ。私はなけなしの財布をはたいて、奈良まで行った。その時買い求めた図録もまた手元に在る。因みに私が持っているシーレに関する書籍の類は、他に「美術手帖3 特集シーレとウィーン 1986」ぐらいだ。

私は、今もシーレに惹かれる。ノスタルジーと共に。雑なあざとい言い方と分かったうえで「体の奥が疼く」のだ。特に一連のヌードの自画像がいい。また、街並みを描いた作品の中には、意外かも知れないが、殿敷侃の最初期の油彩と通じるものがるような、そんな思い込みも私にはある。

さて、現在のこと。「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」が、東京都美術館で2023年4月9日(日)まで開催されている。そういうことである。