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2023年5月14日 (日)

中村憲吉忌(2023.5.5)を過ぎて。

私の本棚から手にした「中村憲吉歌集 斉藤茂吉・土屋文明選」(岩波書店)で、命日が数日前の5月5日だったことに気づく。

歌人中村憲吉<1889年(明治22年)1月25日~1934年(昭和9年)5月5日>は私の通った高校(旧三次中学)の大先輩で、中村の在学当時、倉田百三と共に校友雑誌「白帆」を編集、投稿もしていたらしい。

数年前、三次市布野町の生家を改造した中村憲吉文芸記念館を訪ねたことがある。

庭に一本のアララギ。濃い緑が輝いていた。

晩年、広島市郊外の海辺で療養もしたとか。没したのは尾道。

憲吉の初期の歌を一首。

明治41年「竹」から、

  月の夜を霧に濡れたる竹垣のひかるが上に吾が影行けり

そして晩年(昭和9年)の作品から一首。

  悲しみが心に沁みて亡き君を夜々に夢みて寝がたかりける

広島はG7開催を前に厳戒態勢。

巣篭りとまでは行かないけれど、市中に出る気は無し。

2023年4月25日 (火)

八幡高原聖湖マラソン大会休止のこと、など。

昨日開いた八幡高原聖湖マラソン大会の公式HPに、休止のお知らせがアップされていた。

当マラソン大会は第36回(2019年(R1))以降、新型コロナの影響で37回、38回、39回と3年連続休止になっていたのだが、40回目となる今回は4年振りに開催されると思い、参加を考えていたもので、正直落胆。ただ、HPの公告によると、大会組織委メンバーの高齢化など様々事情がある由、致し方がない。このマラソン大会は、市民マラソンとして地元、そして広島県内外から多くの参加者が集う、なによりアットホームな大会で、私は1996年の第19回大会に初参加、以来5回の欠場を除き、36回大会まで18回参加している。

コース途中にはマツムシソウの群落などもあり、初秋の風にそよぐ山野草が楽しめる。また、この地を探索されたと言う牧野富太郎博士の石碑もある。聖湖畔も木立の中、ダム湖沿いに緩やかなアップダウンが続き、愉しい。地元のボランティアやスタッフの皆さんも、恒例行事として、おもてなしが行き届いていた。沿道の応援も暖かかった。本当に永きにわたりありがとうございました。感謝感謝!である。

これを機会に私のマラソン大会参加歴を簡単に振り返っておきたい。

私が初めてマラソン大会に出場したのは、1989年(H1)3月19日(日)に開催された第9回ひろしま国際平和マラソン大会で、10キロの部、知人の計測によれば記録は39分50秒。34歳初出場でのこのタイムは、一市民ランナーにしては上出来だったのではないか。この大会も、2019年を最後に正式に終了になったらしい。

私がジョギングを始めたのはそれより数年前20代後半の事だったと記憶している。当時、大阪から広島に帰って間がないころ、早朝、日の出前、なんとなく暇に任せて走り始めたような気がする。そしてその数年後、弾みと言うか、会社の数人の仲間で大会に出ることになったのだった。

2回目の大会参加はそれから7年後。それが、当時は「聖湖一周マラソン大会」の呼称だった八幡高原聖湖マラソン大会への出場である。1996年(H8)9月1日(日)第13回聖湖一周マラソン大会10キロ一般男子の部で、記録は51分33秒。

次がこれまでで唯一のフルマラソン出場となった、総社市で開催された’96吉備路マラソン大会である。1997年(H9)2月23日(日)記録はフル男子B、4時間32分58秒で完走。42歳での初出場にしては頑張ったが、余りのしんどさにもうフルは止めとこうと思ったわけで。

さて、八幡高原聖湖マラソン大会出場記録。10キロのベストは47分37秒。(1997年9月7日。第14回大会)ハーフのベストは1時間53分30秒。(2001年(H13 )9月2日。第18回大会)尚、この大会でのハーフは第18回、第27回、第35回の3回出場。

他の大会にも、友人に誘われて数少ないが出場している。

「呉とびしまマラソン」ハーフでの参加(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)

ベストは第4回の2時間00分12秒。(2013年(H25 )2月24日(日)一般男子)

「ロードレース”くれ”」10キロでの参加(第64回、第65回)

ベストは第64回の49分58秒。(2011年(H23)12月18日(日)壮年男子)

全てを合わせると、これまでのマラソン大会出場は34歳から65歳まで27回。

公式タイム自己ベストは、

10キロ:47分37秒。ハーフ:1時間53分30秒。フル:4時間32分58秒。

まあ、歳の割に、そしてちゃらんぽらんな自己練習の割には良く頑張って来ている。

それもそろそろさすがにフィニッシュが近いような気がする。

因みに、ジョギング、マラソン以外に、私のスポーツについて。

20代後半から30代後半までスキーにはまった。広島は都市圏近郊に大小様々なスキー場がある。仕事関係を中心に仲間と数人で、冬場は毎週のように、スキーバスや自家用車を乗り合わせてスキー場へ通った。いちばん多く通ったのは芸北国際、恐羅漢あたりか。スキーは30代でぱったりやめた。

夏場は、これも仕事関係のメンバーを中心に島根県や山口県の海水浴場へも度々出かけた。また、職場の近くに公営のプールがあり、仕事終わりにはよく泳いでいた。水泳の方は、今も時折、公営の屋内プールや海にも出かけている。

また、20台後半には、近郊の低山登山に一人で度々出かけていた。

まあ、ざっと、わたしのスポーツ歴はこの程度だが、考えてみれば、これらがあって、どうにか生きてこれたのかもしれない。(スポーツと言えるかどうかわからないが、たまの太極拳もあるにはある。)

詰まるところ、これらのスポーツは私の孤独を再確認し、そして癒す「モノ」かもしれない。

2023年4月 5日 (水)

4月5日清明節。お昼前からぽつぽつ、雨。

昨日は、以前から医師に勧められていた、心臓エコーを撮りにクリニックへ。

経胸壁心エコー、結果は相変わらず僧房弁から血液の逆流が若干みられるものの、日常生活には支障なしとのこと。

また、心電図はこちらも針が触れるところがあるものの、これも以前からの事で大丈夫。

胸部X線画像も問題無し。

また血液検査から心不全の恐れも無し(NT-proBNP値は基準値18.4より下)。

医師からは、年齢的に心臓は鍛えられないし年相応に無理のない生活をしていればいいと言われる。年に一回程度はエコー検査を勧められる。

今日4月5日は、清明節。と言う訳ではないのだが、先日に続いて短歌一首。

 石走る谿間を行けば家廃れ

 山桜かな山桜哉     永洋(2023.4.3)

私なりの山水画の世界です。

下の句の詠嘆「山桜哉」だけが三十数年前(!!)から脳裏にあり、それを使いたくてその言葉だけを長く反芻していたのですが、数日前、久しぶりのジョギング中に、すんなりと全体が出来上がりました。まあ、万葉集にあるこの季節の枕詞を使った素直極まりないそれですが。

2023年4月 2日 (日)

降りしきる涙も痛し清明夜 一人の寂寥二人の孤独。(永洋)

音楽家 坂本龍一さんが、先月、3月28日(火)に71歳で亡くなられました。心からお悔やみ申し上げます。

短歌、近作四首をここに記します。(永洋)

降りしきる涙も痛し清明夜

一人の寂寥 二人の孤独   (2023.2.18)

  *清明は4月5日ですが詠んだのは2月。まあいいか、です。

情よりも術を知りたし日々のこと

懲りず怒らずあなたと暮らす (2023.3.8)

急かされて蕗の薹摘む蓬摘む

天から降りし母と並んで   (2023.3.18)

問われれば沸き立つ花の苦しくて

ソメイヨシノの春は嫌いと  (2023.4.1)

2023年3月16日 (木)

大江健三郎の訃報を知って。(日差しの中で、記憶は見真講堂から遠く。)

ネット検索によれば、広島市中町に曾てあった見真講堂は1998年閉館と、中国新聞の記事にある。その見真講堂で開催された大江健三郎(1935~2023)と井上光晴(1926~1992)の講演会に出かけたことがある。大江健三郎が「洪水はわが魂に及び」(1973年 新潮社刊)を、そして井上光晴が「心優しき反逆者たち」(1973年 新潮社)を出版して、おそらく数年後か或いは直後、私が20代半ば、大阪から広島に帰ってすぐだったか・・・(いや、大阪へ出る直前か?)。講演会の内容は、もうほとんど全くというほどに覚えてはいない。ただ、大江が「ヒロシマノート」(1965年 岩波新書)に言及し、井上が「虚構のクレーン」(1960年 未来社刊)に言及し、とりわけ虚構と事実、事実と真実に執拗な程に拘っていたような記憶が、あるにはあるが、その具体的な内容は全く覚えていない。(付け加えれば、人選からして、それぞれの近著出版元である新潮社主催だったかもしれないが、確証はない。)

さて、大江健三郎がこの3月3日午前3時過ぎに亡くなった。新聞記事には老衰、88歳とある。今、微かな人生の記憶と押し寄せる様々な重力の洪水の中で、私は、しばし感慨にふけった。感慨にふけるぐらいは許せるだろうと、自答しながら。

道を挟んで見真講堂のほぼ向かいには宿泊施設「法華クラブ」(ホテル法華クラブ広島が正式名称のようだ。それは今もそこに在る。)があった。そしてその道のどちら側かを、どういう経緯だったか高校時代の同級生W君と歩いたことがある。W君とは拠って立つ思想信条が異なっていたような気がするが、それは高校生時代の事、私に限ればいい加減不確かであいまいなそれであった。だが、W君のその磁場は私には及ぶべくもない強固なものであったような。夏だったのか日差しが暑く、そして強かった。私たちは日に晒されながら歩いていた。私に歩調を合せてくれていたW君が、ふと私に「日陰を歩けばいいのに」と言ったのだが、その彼の一言だけが私の記憶の底に沈んで今も剥がれない。同じその頃と言っても講演会からは数年後だったと思うが、いずれにせよかなり遠い。もう遥か遥かのことである。

話が外れた。・・・決して氏の熱心な読者ではない私が最初に読んだ作品は「死者の奢り」(1957年、文学界初出)。それから幾つかの作品を読んだ。そして今日までに距離は随分と離れてしまっていたのだ。願わくば、高みにて静かな日々を送られますように。

「大江健三郎さん死去」のトップニュースが載った同じ中国新聞第1面(2023年3月14日(火)付)には、並んで「袴田さん再審決定(13日)」の記事がある。袴田巌さんは現在87歳。その歳月の果てしなさ!!一日も早い再審開始と、無罪判決を!(尚、東京高検が最高裁に特別抗告の方向で検討との記事が中国新聞17日付にある。権力の横暴に言葉を失う。)

2023年3月 1日 (水)

「蜜のように甘く」読了。

(メモ)

イーディス・パールマン著「蜜のように甘く」(古屋美登里訳 亜紀書房刊)

読了!この短編集凄し!!

2023年1月20日 (金)

切っても切っても白い波 永洋

昨夜は同居人の足の痛みや体の震えの介護でほとんど眠れず、それが、今日は呼ばれることは無いのだが、昨日の寝不足からか、却って眠れない。

どうしたはずみか、布団の中の私の脳裏に、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」が繰り返し出てきて、ならば私の場合は、

「切っても切っても白い波」或いはゴロ良く「抜き手を切れば白い海」なのだろう。などと無音で呟いている・・・。(ああ、立ち切れない人生がある。哂え!)

今更に、「青い山」がイコール「人生」となる。そんなことにこの老いた歳になって気付くのだ。とうに評論家や山頭火愛好家が述べてはいるのだろうが。ただ、彼は無鉄砲に藪を分け入っているわけではないのだろう。そこにはけもの道、或いは山里を縫う険しく細い道が続いているに違いない。その瑞々しく美しい青い山を辿っているのだ。人恋しさまでも私は想う。どうだろうか。決して孤独ではない。などと。いつか必ず人と遭遇するのである。一幅の山水画がそうであるように。

泳ぎはしないが、冬の海に行って見たい。

追記:「きって」つながりで、今年届いたお年玉付き年賀はがき、十数枚ながら切手シートが一枚当たりました。確率いいよね。

2022年12月14日 (水)

「真実の生」を生きる。それでも、肩の痛みに耐えかねて・・・・

「真実の生」を生きる。

ヴァ―ツラフ・ハヴェル著「力なき者たちの力」(阿部賢一訳 人文書院刊)読了。

そして

今シーズンの初雪。

吹雪いている。

ああ、肩が痛い・・・・・

2022年11月28日 (月)

初冬の聖湖(樽床ダム)逍遥②(写真一枚)(2022.11.20撮影)

11月20日、聖湖一周ウォーキングの折の写真を投稿します。

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2022年11月21日 (月)

聖湖逍遥。(2022.11.20.)

またまた西中国山地へ。

今回は、先日の深入山山頂から望んだ聖湖へ。

過去何度かマラソン大会で走ったことのある聖湖畔を今度は歩いてみようと思い立ったわけで。

朝9時55分聖湖(樽床ダム)の堰堤を出発。途中から湖岸を離れて国道を歩くことになるわけだけど、

ぐるっと約12.5キロ。休み休みで2時間40分かけて12時35分、歩き切ったわけで。

ああ、しんど!でした。

その後、堰堤近くの「北広島町立芸北民俗博物館」も、久しぶりにちょこっと見学しました。

紅葉はほとんど終わり、湖面を走る水鳥も。遥かに深入山、臥龍山の山々。

足腰ツライなあ、息切れ胸もしんどいなあ・・・ではありましたが、湖岸の初冬を楽しみました。

(以上、記録しておきます。)