「蜜のように甘く」読了。
(メモ)
イーディス・パールマン著「蜜のように甘く」(古屋美登里訳 亜紀書房刊)
読了!この短編集凄し!!
(メモ)
イーディス・パールマン著「蜜のように甘く」(古屋美登里訳 亜紀書房刊)
読了!この短編集凄し!!
今日2月終りは、4月の暖かさとか。
お昼12時からのリハビリを終えて、車の中で昼食。
そして2時半から受診。
先生は、MRIを撮ってみるか、それともこのままとりあえずは関節注射とリハビリを続けながら経過を診ていくか、などと。
全部で3つの選択肢を提示される。その中の一つは、まあ一番無難な注射とリハビリの継続。
1回目の注射は2月15日付のブログに書いている。
2回目(2月21日)は以下の通り。
左腕肩関節に。(状態が良くなった右腕は無し。)
アルツディスポ関節注25㎎ 1%2.5ml 1筒
カルボカインアンプル注1% 2ml 1菅
3回目の今日は1回目と同じ。(右腕は無し。但し左肩関節の注射位置が前回、前々回と微妙に異なる。)1回目同様の強い注射。
ケナコルト―A筋注用関節腔内用水懸注40mg/1ml 0.5瓶
カルボカインアンプル注1% 5ml 1菅
(数日の疲れが溜まっている。腕も体も、気分もだるい。)
安けりゃ何でもいいわけで、まずく冷たい缶コーヒーを飲みながら、帰った。
風雨に家が揺れ、壁もふわふわと膨らみ騒ぐ。私は痺れた足と痛む左肩、左腕を持て余しながら階下へ降りようとするのだがままならない。
すると、トイレに向かうSの姿が、階下に確認できる。そのSは私を見ると、一言、「君もパーキンソン病じゃないの」と声を掛けてくる。
そこで目が覚めた。夢だ。ただ、確かに足はだるく、肩も相変わらず痛いのだ。
Sは一昨日、昨日、今朝がたと、私を起こす時間帯は異なるものの、排尿などの介護が必要。からだの振顫も酷い。Sが私を呼ばなければ呼ばないで、熟睡も出来ない。
今年に入って、Sは競馬をやりたがる。私がネット投票をしてやる。結局は負けが込むのだが。
まあ、そう大金は注げないので、とりあえずは私の気持ちを抑えてはいる。
今日は、午後、Sの言語リハビリで、病院まで連れて行く。
夕方から夜にかけてひどく疲れている。疲れ果てている。
(追記)
夜9時過ぎ、Sをリビングから寝室のベッドに車椅子で移動させる。
それから1時間半ぐらいたったころ、酷く咳き込む声が、2階の私の部屋まで聴こえてくる。
階下に下りてみると、Sはベッドに座り込んで、激しく咳き込んでいる。どうも誤嚥のようだ。
昼間に飲みこんでしまった飴玉が喉の奥か気管の入り口に留まっていると言うのだが、よく分からない。お湯を飲ませる。しばらく様子を見る。咳が止まらないので、体の右を下にしてベッドに横たわらせて、背中をしばらく叩きつづけてみる。すると程なくおとなしくなって、眠り始めた。
灯りを消して部屋を出る。時間は夜11時過ぎ。それから更に日付が変わって3時過ぎ、Sの様子を窺うと、体勢は少し崩れていたが、ほぼ横向きのままでよく眠っている。
取り敢えずは落ち着いた様子だ。
初めて私がエゴンシーレの存在を知ったのは、大島渚監督が、もうとっくに誌名も忘れたが確か雑誌のコラムか何かで、自身の好きな画家の一人としてエゴン・シーレの名前を記しておられて、そう言う偶然があったからだ。もう何十年も昔の事だ。
殆どその当時、あれもまた偶然なのだが、広島の街を歩いていて、京口門辺りに画廊があって、それはビルの狭い階段を上がった二階で、常設展だったような気がする。そこに、エゴン・シーレの小さな素描(まるで息を吐くような若い男の顔だったような)が一点掛けられていた。
しばらくその作品に見入っていた。そうしたら、画廊のオーナーらしき人物が、英語版のEGON SCHIELE図録を私に手渡し、差し上げますと。
それが今も手元にある。表紙にローマ字で小さくNAGATAの文字が読み取れる。その「ナガタ画廊」は今もあるのだろうか…。
今回、今更ではあるが、ページをめくっていて、その最後に色の褪せて薄っすらと染みのついた「友部正人コンサート」のチラシが挟まっていることに気がついた。
それには’82年3月21日(日)開演午後6時。ところ:ナガタ画廊、前売1,000円、当日1,200円とある。それで、私がシーレの作品を初めてみたのが27歳だったことが分かった。今からもう40年以上前の事だ。
次にエゴン・シーレを見たのが、ナガタ画廊での出会いから4年後、1986年5月17日~6月29日、奈良県立美術館で開催された「エゴン・シーレとウィーン世紀末」展でのことだ。私はなけなしの財布をはたいて、奈良まで行った。その時買い求めた図録もまた手元に在る。因みに私が持っているシーレに関する書籍の類は、他に「美術手帖3 特集シーレとウィーン 1986」ぐらいだ。
私は、今もシーレに惹かれる。ノスタルジーと共に。雑なあざとい言い方と分かったうえで「体の奥が疼く」のだ。特に一連のヌードの自画像がいい。また、街並みを描いた作品の中には、意外かも知れないが、殿敷侃の最初期の油彩と通じるものがるような、そんな思い込みも私にはある。
さて、現在のこと。「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」が、東京都美術館で2023年4月9日(日)まで開催されている。そういうことである。
雨水(2月19日)過ぎて21日の朝の雪。
中国の諺(農諺)に、
「立春雨水二月里、送粪莫等冰消完。」
拙訳で
「立春雨水は二月のうちに、氷溶け去るを待たず肥やしを運ぶ。」
があります。
雪は降っても、はや春を耕す季節とか。
因みに、私のメモ帖によれば、2022年2月21日も雪だったみたいです。
sの、ここ数日のこと。
2月18日(土)、19日(日)ショートステイ。まずまず、無難に過ごす。
20日(月)午前、ヘルパー2時間半。午後、通所言語リハビリ。そのあと、Sの確定申告で税務署へ。人多し。二時間以上待つ。Sには体力的にも精神的にも負担過。振顫も激しい。
21日(火)朝から排便困難を極める。やっと11時近くなってデーサービスへ連れて行く。
その後、私は先週から通院を始め、予約を入れていた駅北口のH整形外科に。午前、理学療法士によるリハビリ。午後は問診、左肩への注射(先週とは異なる内容の注射)。
22日(水)早朝、衣服をすべて脱いでいたSの着衣補助、洗濯など。午前、Sの訪問リハビリ、ヘルパーさんによる入浴介助。午後、ケアマネージャーさん来られて、来月のスケジュール確認など。
23(木)、午前2時、S、階下から熟睡中の私に電話。Sの紙おむつ替えなど。導眠剤を服用させる。その他、散乱したベッド周りの整理など。
朝7時前、Sが呼ぶ声で階下へ。7時の薬を服用させて。体の位置を直す。
朝8時半、排尿が上手くいっていず、衣服を着替えさせ、ベッドシーツ、防水マット等の交換洗濯など。朝食は9時半ごろになる。
私自身のこと。
昨年11月下旬から特に左腕が不調。腕が上がらない。水平にすることさえままならない。
肩から肩甲骨、肘にかけての痛みがひどい。
左腕ほどではないにせよ、右腕も痛い。
行きつけのクリニックで痛みどめ(カロナール)を処方してもらったり、
月一回同じクリニックでリハビリを受けたりはしていたが、どうも好転しない。ここ数日は特に痛みも酷かった。
結局、意を決して以前何度か受診したことのある、駅前のH整形外科を受診。
この医院は、母が生前何度か通っているし、Sも例の肺の異常を見つけてもらったところだ。
私も坐骨神経痛で通ったことがある。
ただ、患者が多い。
昨日の火曜日は特に多かったようで、午前十時半の受け付け、受診は午後1時になった。
待ちくたびれたわけだが、それでも、よく診てくれた。
レントゲンの結果、骨には異常はなく、やはり、介護からくる筋肉疲労の可能性が高いようだ。
右肘はテニス肘。問題の左手は、筋肉の断裂も疑われるが、とりあえずは注射を打って様子を見ることに。
来週から週1のペースで通院。リハビルも開始。Sの介護等のスケジュールに合わせて、予定を組んでいく。
尚、昨日の注射は以下の通り。
(左手)関節腔内注射
・ケナコルトーA筋中用関節腔内用水懸注40㎎/1ml 0.5瓶
・カルボカインアンプル注1% 5ml 1管
(右手)腱鞘内注射
・ケナコルト―A筋中用関節腔内用水懸注40mg/1ml 0,25 瓶
・カルボカインアンプル注1% 2ml 1菅
今日2月15日は、朝から小雪。終日、降ったり止んだり。寒い。
昨日の注射は、今朝、若干効いてきいたよう。痛みも大分落ち着いてきたようだ。
朝、5時、Sがベッドでうつらうつらしている私に階下から携帯電話。
下りてみると、玄関で、歩行器につかまって震えている。
上着はうまく切れなかったようで、背中で止まっている。
靴はS自身のものと私のスニーカーを片方づつ穿いている。
犬がガレージの私の車の下にいると言う。
幻覚がひどい。
私の中に抑えても抑えきれない怒りが、こみ上がって来る。
余りにも辛い。
今朝、それでもやっとデーサービスには行ってくれる。
夜も朝の影響からか、二人の間で諍いが絶えない。
庭にも野にも、昨日の雪がまだ残っている。
夜、Mさんから電話。お供えのお礼と、W先生たちがお参りに来られたお話し。
Mさんのご主人(パーキンソン病)の今日は命日。丸6年・・・。
ご主人には、Sが大変お世話になっている。
(メモ)
2022年2月10日。日付が変わったごろから激しく霙。
10日夜明け前から、重い重い湿り雪。
夕方まで続く。
雪は小雨に。
前回、灯浮標76の続き。
2泊3日のショートステイの件。
S、結局スタッフの対応などについて納得がいかず、私がケアマネージャーとやり取りをして、そしてスタッフサイドに聞き取りをされ、2月1日、ケアマネージャーがこちらに来られる。
Sの納得がいっていなかったことなどを直接Sに説明される。どこまで理解できたのか分からないが、どうにか収まりつつはあるようだ。当面2泊3日のショートステイは中止。先週末のショートステイも中止。デイサービスに振り替えた。
毎食後の傾眠状態がより顕著になりつつあるようだ。
日中の覚醒した時間も少なくなりつつある。
ギャンブル依存について言えば、度々触れているが、やはり消えることは無い。
金額は少なくなったものの、宝くじ(ロト)、競馬(ネット購入)などは毎週のように購入。
私の心にそれが苛立ちとなって積み重なる。
最近は、Sとの会話も減少。
それぞれが孤立している。
私は、1月末、以前母が通院していた心療内科のある病院(市内)に電話でコンタクト。
Sではなく、私が受信するために心療内科を予約。色々聞き取りをされて、予約は1か月余り先の3月初め。なんだか、社会の有り様を反映しているような混み具合である。
Sの誕生日は2月8日。数日後には69歳になる。
今年1月でパーキンソン病の発病から18年目に入ったS。
Sも私も、これからどうなるのか。
私には、私自身の老いや精神の疲弊と併せて、不安しかない。
灯浮標を書き始めて1年になる。少し休もうかなとも。ここの所、代わり映えしないし。
うす雲の朝。庭にはまだ雪。
今日は、午後、言語療法リハビリにSを連れて行く。
あと一時間余りでヘルパーさんが来られる。(午前中1時間半の身体介助&生活介助)
最近つとに感じるのが、Sの認知症の入り口かなあ、と思わせるような、日中の幻聴、幻視、幻覚の散発的な出現。私の言葉も入っていない。意味不明の言葉をつぶやいていることもある。
今日などは、夕方、そろそろ学校へ行くと言い出す始末。(見当識障害か?)
私の気分が落ち込む。あと何年、この家で同居が可能だろうか。
私の腕から肩にかけての痛みも、昨年11月末から一向に治らない。
・・・・・・・。
・・・・・・・。