朱自清「ばたばた」(原題:匆匆)を訳しました。
中国のエッセイストで詩人、朱自清の作品紹介第2弾です。
前回の「春」が確か5月ごろだったので、半年ぶりですか。今回は「ばたばた(匆匆)」。あくまで自分なりの自己満足訳ということで。ではどうぞ。
「ばたばた」(原題:匆匆) 朱自清
燕は去り、また再び飛来する。楊柳は枯れても、また再び緑の時が訪れる。桃の花は散り、また再び花が咲く。時よ、あなたはご存じだろうか、私たちの営みが、何故にこうして過ぎ越しを繰り返すのかを。 時の盗人よ。あなたはいったい何者なのか?そして、過ぎ去った時をいったい何処に隠したのか?いやいやそうではなく、時は、自らの意志で逃げ去ったのだろうけれど。では、果たしてその逃げ去った時は、今何処に居座っているのか。
もっとも、彼らが私にどれだけの猶予を与えてくれているのか、私は知る由もないが。ただ言えるのは、私の手は何かを確実に掴み取ったわけではなく、掴み取った筈の何かは、手ごたえも無く虚ろであるということだ。時は何も語らず、二十年以上も私の手の中から流れ落ち続けている。もともと、時の一滴は海に消えた針の先端ほどで、私の時はその僅かな一滴の連続に過ぎず、音も無く、影も形も無い。様々に思いを馳せれば、私は涙を禁じ得ないのだ。
去るべきものは去り、来るべきものは来る。去るもの来るもの、その狭間で時は何故にこうも慌ただしいのか。朝起きると、我が家の狭小な一室にも、太陽の光はあちらこちらから差し込んでくる。太陽には脚があり、それは軽々と音も立てずに移動する。私もまた似たようなものなのか、日がな一日ただ黙々とせわしなく同じ所を回転しているにすぎない。時は、手を洗うたびに手水鉢から零れ落ちる水のようにあっけないし、そしてまた、食事時に御碗から飯粒が零れ落ちるように、去っていく。私がぼんやりしている間に、時は私の目の前から消える。しかもそれは、いつだって慌ただしく、手を伸ばして遮ろうとしても、遮ったその手の端から遠ざかる。未明、私はまだ寝床に横たわっているのだが、よくしたものでそれは私の体にまたがり、私の足元から飛び去って行く。目覚めてまた再び太陽に別れを告げて、私の一日が終わる。私は大きく溜息をつく。一日は私の溜息に始まり、瞬く間に過ぎて行くのだ。
飛ぶが如くに逃げていく時よ。無数の営みがひしめくこの世界の中で私には、いったい何ができるというのだろう。ただ当てどなくうろつくだけか。ただせわしなく動き回るだけか。私には、これまでの人生、日数にすれば八千日以上をばたばたうろつく以外に、時を費やす術は無かった。過ぎ去った時は、僅かな風にも吹き散る煙の如く。朝の太陽に溶ける薄い霧の如く。私は、いささかでも私の痕跡をこの世に残せるのだろうか?これまでに私の残したものは、頼りなく揺れる、か細い絹糸一本にでも例えられるのだろうか?私はこの世に裸で生まれ落ちた。そしてまた一瞬にして裸で帰っていく。だから私は、無駄にせわしないこの生き方を、そう易々と受け入れたくはない。
時よ、聡明なあなたは私に答えなければならない。我たちの「時」は、何故に繰り返すのかと。 [1922.3.28.]
*底本「朱自清散文选集」百花文艺出版社
(訳:洋文 2014.11.13.)
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