灯らない燈籠
無残なものです。
里帰りして、お墓参りして、盆燈籠たてて、そりゃあ、お墓も華やぎます。
共同墓地など、盆燈籠の海にお墓が見え隠れして、圧巻。
広島県は、いわゆる安芸門徒と呼ばれる浄土真宗が、圧倒的です。
そして、お盆には、その真宗のお墓に燈籠が立てられます。
赤や黄や青の紙を、天に向かって広がる六角錐の竹の骨にそって貼り付け、金紙の縁取りや、七夕のようなふさ飾りが付けられます。初盆を迎える新仏のお墓には、白色の紙が貼られ、金紙でふちを飾った燈籠が用意されます。
人の背ほどもある竹の支柱で燈籠は、墓石を取り囲むように、そしてその華やかさを競い合うように立ち並びます。
お寺さんに言わせれば、宗教とは直接関係のない、単なる風習とのことですが、実際は、お盆のこの時期の事。宗教、そして信仰と密接に関わりあっていることは、目で見る限り、実感できる事実です。(中には、燈籠禁止のところも、あるようですが。)
その昔、私の田舎では、盆燈籠を立てる家は少なかったような記憶があります。それが、いつの頃からか、街に出ている家族や親戚が盆燈籠を買い求め、田舎の墓へ立て始め、そして、今では、県内、都市部、山間部を問わず、どこもかしこもお盆の風景として、当たり前となり、こうなれば、安芸門徒にとどまらず、それ以外の宗派であっても、お盆には燈籠を立てるところも。
お盆が近づくと、大抵のコンビニでは、盆燈籠が店の中から外まで溢れます。
もちろん、その多くが中国製のようです。
里帰りの車も去り、お盆が過ぎ、そしてこの雨です。
無残なものです。
里帰りして盆燈籠を立てて帰ってしまえば、あとのことは、どうなろうと知ったこっちゃない。
そういってしまえば実も蓋もないのですが。でも・・・。今、この雨の中、車をUターンさせてご覧なさい。
とり残された、老人と、雨に打たれて、骨から皮が垂れ下がった如く、惨めでしょぼくれた燈籠が、無数に、墓の荒野を埋めて、つっ立っています。
あとは、塵となるだけ。
その塵を焼くのは、腰を折りたたんだ老人たちに委ねられます。
それが叶わない墓では、風雨に倒れ、貼られた紙は千切れ、骨は折れ、そのまま月日を数えるだけです。
こうした風習に縁がない私が、くどくど描写しても儚いものですが。
でも、この時期、どこにでもある風景だから。
雨が降り続いています。
雨が、今朝から降り続いています。
紅棗「ホギリート」更新
そうか・・安芸門徒もこまったもんと・・
今日の昼すぎから涼しくなったよ。
日常の些事大いに結構です。
じゃんじゃんさじってください。
塩壷の匙の作者最近どうしてるんかな・
奥さんの調子悪いって聞いたが
近々、浜岡へ行くことになりそうですわ・
先が思いやられそうで、、
なるようになるしかしょうないわぁ・
投稿: いろはの・・ん | 2011年8月19日 (金) 23:16
盆灯篭が見ると、いつも人生を感じます。
それぞれの人生をすごし、今ここに眠るという感じでしょうか、せつない気持ちになります。
人生とは一体・・・
と言う気持ちになるのは秋が近づいたせいかもしれません。
投稿: shozen | 2011年8月20日 (土) 09:47
いろはの・・・んさん。
コメありがとうございます。
浄土真宗の歴史をさかのぼれば、鎌倉、室町、戦国時代と、かなり戦闘的だったようです。
因みに、江戸期、安芸門徒の思想的拠り所だった大エイ(エイはめっちゃ難しい漢字なのでカタカナ表記でごめん)和上のお墓、我が家から車を飛ばして40分程度のところにあります。
今、安芸門徒、門徒の数だけで言えば、広島では仏教界の保守本流?ってところかなあ。なんて、門徒さん、いい加減なこと言ってごめんなさいね。
さて、車谷さんねえ、私、最近ごぶさたで。
ここのところ、なんとか列車の西村某が、もてはやされているようですね。
私は、ちょっと距離を置いておりますが。
浜岡・・・。たいへんよねえ。ほんとうに。
お察しします。
なんだか、君の人生の中でも、これは、大きな意味を持つような気がするよ。こんな無責任な言い方で、ごめん。
とにかく、体だけは、無理せんように。お子さんも、君も。
投稿: HIRO | 2011年8月20日 (土) 11:08
shozenさま。
コメ、ありがとうございます。
せつない雨が、今も降っております。
お墓の中には、お骨。無い墓もあるけれども。
それぞれが思い出を手にお墓へお参りするのでしょうね。
手を合わせ、話しかけたとき、お墓はお墓としての機能を発揮し始めるような気がします。
草をむしり、掃き清め、おはなを活けたら、お墓が甦りますもんね。
秋ですね。お彼岸が近づいてきました。
早いもんです、一年も人生も。
投稿: HIRO | 2011年8月20日 (土) 11:14