(HIRO訳漢詩26)
<原詩>
「长干曲」
逆浪故相邀,
菱舟不怕摇。
妾家扬子住,
便弄广陵潮。
<HIRO訳>
「長江の畔」
寄せては返す浪よ浪
菱の実採りの舟揺れる
私のうちは揚子江
寄せる潮に遊ばれる
底本:「中国古今民歌选译
~Chinese Folk Songs and Their English Translation~」(王宏印选译)
<商务印书馆出版>(2014.北京)
久しぶりのブログ更新。久しぶりの漢詩訳です。
今回は、中国で古くから歌われてきている歌から、この時期に合いそうな一曲を訳してみました。
そういえば、私が子供の頃、近くの沼に遊びに行き菱の実を採って帰ると、母がそれを茹でてくれた思い出が微かにあります。栗のような味だったかなあ・・・・。
因みに、菱の実の形は、忍者が使うマキビシのそれで、鋭い角があります。
画像は、詩とは直接関係ありません。数年前の夏に訪れた上海市内の公園です。
「荷塘月色」(月下の蓮池) 朱自清
ここ数日、心穏やかではない。今宵、庭に座り涼をとりながら、不意に思い起こす蓮池の日々。それらの総ては、特別な趣を湛えて満月の光の中にある。月は次第に高く昇り、塀の外から聴こえていた大通りで遊ぶ子供たちの歓声は、既にない。妻は部屋でルンを寝かしつけている。ぼんやりと掴みどころのないあの鼻歌は、子守唄。私は、袖の長い一重の服を着ると、門を閉めて我が家を後にした。
蓮池に沿って、小さな石炭屑の道が、折れ曲がりながら続いている。この道は、いつもひっそりと佇んでいて、昼間も人通りは少なく、夜は更に寂しい。蓮池の周囲には木々が立ち並び、草木が生い茂っている。それらは楊柳や名も知らない木々だ。月明かりがなければ、この道はただ陰鬱で、人を怯えさせる。月のその光は弱く、今晩は却ってそれが良い。
道には私一人、後ろ手にしてぶらぶら歩く。この世界の有り様こそは私の思うところ。自己をありのままにさらけ出し、そうして平常とは異なる別の世界に到達するのだ。私は喧噪を愛し、静けさにもまた惹かれる。私は群れを成すことを欲し、独りでいることもまた求める。今宵は、私一人この蒼茫たる月光の下で、どんなことでも出来ると思ったり、思わなかったり、言うなれば、私は自由である。昼に必ず成すべき事や、言っておかなければならない事があっても、今は、その何一つをもしなくて済む。これはこうして一人で居るからこそ許される。そして私は、この無限に漂い続ける蓮の花の香り、月の光が好きだ。
くねくねと曲がりながら広がる蓮池の水面は、蓮の葉で見渡す限り埋め尽くされている。葉は、水から首を高くもたげて、それは踊り子の優美なドレスにも見える。重なり合う葉の中ほどに目を遣れば、あちらこちら白い花で彩られ、その花はひたすらたおやかで、まるで人見知りをしているかのように俯き恥らう。まさに、花一輪一輪が玉(ぎょく)の一粒一粒。それはまた青空の星々であり、湯浴みをしたばかりの美女か。そよ風が吹き渡れば、爽やかな香りが絶え間なく私の元に届き、はたまた風の音は、遥か高殿からの歌声にも似ている。この時季の葉と花は弾かれた糸のように震え、その震えは稲光のように一瞬にして蓮池の畔に伝わる。葉は互いに肩を並べて密生し、窮屈さを辛抱しているが、その様は青い波の重なりの如くだ。葉の下には池を血管のように巡る無数の水流があり、葉は、視界を遮って池の底を隠す。葉は、風を目に見える形にして、その風情を私に教えてくれる。
月の光は水のように流れ落ちて蓮を濡らしているし、静かで淀みのない流れには、池一面蓮の葉と花が立ち上がっている。蓮池の上には青い霧が薄く揺蕩う。葉と花は、まるで牛の乳で洗われたようでもある。或いはまた、薄衣の夢で覆い包まれているようだ。満月とはいえ、天上には淡い雲がたなびいて、一点の曇りもなく照り輝いているというわけではない。ただ、私の気分にはこれでちょうど好い。―もとより、熟睡するに越したことはないが、とろとろ浅い眠りもまた格別だ。月光は木立を浮かび上がらせ、高く茂っている灌木が、不揃いでまばらな陰影をつくる。地には黒い影が落ちている。木々のシルエットは、まるで鬼のように表情険しく私の前に立ち塞がっている。池の湾曲に沿って楊柳がそこかしこに影を落としていて、それは蓮の葉に描かれた一幅の水墨画だ。池に届く月の光は均等ではなく、バイオリンが奏でる名曲にも例えられようか、光と影が織りなすハーモニーだ。
蓮池を巡れば、遠く近く、高く低く木立に囲まれて、そのなかでも楊柳は最も多い。木々は、蓮池を幾重にも囲んでいる。そこに小路が延び、所々に出現する不意の空間に光が漏れ、月光は殊の外と言うべきか、そこに留まっている。木々には靄がかかっているようで、陰鬱な表情をしている。それでも楊柳が繁茂している様子は、靄の中にも見分けることが出来る。梢の向こうにぼんやり見えるのは遠い山並みで、山容のだいたいがやっと確認出来る。木々を縫って街路灯の光が漏れているが、まどろむ人の目には、目を覚ますほどの鮮やかな色彩ではない。この時分賑やかなのは、樹上から落ちてくる蝉の声と水面から沸き上がってくる蛙の声。そう、賑やかなのは彼らであって、私といえば何もない。
(以下、「採蓮」のお話は次回。)
一九二七年七月、北京清華園。
*底本「朱自清散文选集」百花文艺出版社
(2014.12.28.洋文:訳了)
<転載、流用、引用等厳禁。読んでお楽しみください。>
昨年末纏めた、私家版「朱自清作品集<一>から、まだネットにアップしていなかった
「荷塘月色」(月下の蓮池)」の一部をご紹介します。
新潮9月号。
結局3店目で購入。
広島ではわりかし大きな地場書店チェーンなんか、
もう新潮も群像も置いてないんだって。
文学界は、文芸春秋のついでに置いてあるのかな、なんて。
だれがよむのだろう、
いわゆる、純文芸誌。
(ここの箇所の変換は文芸死。がふさわしい。)
購読者って、新人賞狙いか、未だに文学少年。
まさかねえ。
懐かしかった、こういう雑誌手に取るの。
小川国夫の未発表作品が載ってなければ、
また十年は買わないところだったのだろう。
って、また、俺、くだらんこと、書きすぎや!
ところで、最近の小説読んでふと感じたのだけれど、
パソコン打ちで小説創っているのと、
原稿用紙にペンで直接書いているのって、
なんだか、見分けられるような気がした。
だからどうしたって、ことじゃないのだけれどね。
「ホギリート」更新
Pen(No.303)の特集記事「あの場所で聴きたい音楽。」で、
ブリジット・フォンテーヌ「ラジオのように」を見つけました。
その記事では、@ウラジオストックとなっていましたが、
私なら、上海の安宿でテイクアウトの小龍包をほお張りながら、
同志と世間話に興じて、
その後ろにこれが流れていたら、いいね。
などと、思ったのでした。
私の持ってるレコード盤のこれ、そろそろ風を通してあげなくちゃ。
先週購入した雑誌は、以下。
Pen(No.303<2011年12月1日号>)630円
特集「あの場所で聴きたい音楽。」
通販生活(2011秋冬号)180円
特集「一日も早く原発国民投票を。」
紅棗「サフラン姫」更新
黒島伝冶「渦巻ける烏の群」(岩波文庫「渦巻ける烏の群 他三篇」所収)。再読。
初めて読んだのは、もう30年近く前になるでしょうか。
これは、1927年の作品です。昭和に直せば、昭和2年。
去年、脚光を浴びた「蟹工船」と肩を並べる、重要な作品だと思います。
短編ですが、その世界は、遥か広く、深く、厳しい。
戦争の本質を衝く、反戦小説です。
そして、人間の存在のなんと儚く、哀しいことか。
春になり、雪が溶け、空を埋めて渦巻く烏の群。その下の大地に横たわるもの。
それを想像するとき、今の、日本が重なります。
私は、テレビから垂れ流される東日本大震災の映像を前に、思うのです。テレビが果たす役割の、なんとむなしいことか。
その、唯一の存在価値は、それが、臭いや空気や、冷たさを、決して正しく伝え得ないことにあるのではないだろうか、と。
もし仮に、彼の地の臭いがリアルに伝わるならば、視聴者の多くは、テレビの電源を切るのでしょうか・・・。
(なぜ、こんなことを私が妄想するか。それは、それこそが、あの死亡者、行方不明者を実感する、入り口になるのではないかと思うからです。)
野上弥生子「野上弥生子短編集」(岩波文庫)より「哀しき少年」。
50年近く、記憶の底で、忘れることの出来ない小説。
朝吹真理子「きことわ」読了
西村賢太「苦役列車」読了
(共に、文藝春秋3月特別号掲載より)
「きことわ」では、小川国夫「アポロンの島」を、「苦役列車」では、川崎長太郎「抹香町」が、何故だか、ふと頭に浮かんだ。それぞれ全く異なるものであるはずなのに。
「きことわ」「苦役列車」共に、構成のしっかりした端正な作品だ。確かな実力を感じさせる。
ただ、私が二人の作品を読み続けるかどうかは、また別の話。