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2017年4月11日 (火)

「作家 大田洋子の墓」を訪ねました。

2017410

昨日(2017年4月10日)の夕方、「作家 大田洋子の墓」を訪ねてみました。

代表作に「桜の国」「屍の街」「人間襤褸」「半人間」「夕凪の街と人と」など。

廿日市市佐伯町玖島の川沿いに、ひっそりと。

表には

「作家 大田洋子の墓」

裏には

「昭和三十八年十二月十日」

福島県猪苗代湖中の沢温泉に於いて頓死

                 享年六十一才」

とありました。

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2017年3月 8日 (水)

HIRO訳漢詩28<「春思」李白>

2017

<HIRO訳漢詩28>

3月5日の啓蟄を過ぎても、今日は小雪舞う寒さ。

久し振りに漢詩を訳してみました。

今回は李白の「春思」です。

(画像は、近くの道端で咲いていたオオイヌノフグリです。)

「春思」   李白

燕草如碧丝,秦桑低绿枝。

当君怀归日,是妾断肠时。

春风不相识,何事入罗帏。

「春の思い」

遥か燕(えん)の地の草々は青い絹糸、

こちら秦(しん)の地は桑の枝に緑滴る。

あなたが帰る筈だった今日この日、

私の心は張り裂ける。

春風は何も伝えてはくれず、

ただ帳(とばり)を揺らすだけ。

2016年8月 9日 (火)

HIRO訳漢詩26.「長江の畔」(长干曲)

HIRO訳漢詩26

<原詩> 

干曲

逆浪故相邀,

菱舟不怕

妾家子住,

便弄广陵潮。

 

 <HIRO訳>

「長江の畔」

寄せては返す浪よ浪

菱の実採りの舟揺れる

私のうちは揚子江

寄せる潮に遊ばれる

 

底本:「中国古今民歌选译

~Chinese Folk Songs and Their English Translation~」(王宏印选译

<商书馆出版>(2014北京)

 

久しぶりのブログ更新。久しぶりの漢詩訳です。

今回は、中国で古くから歌われてきている歌から、この時期に合いそうな一曲を訳してみました。

そういえば、私が子供の頃、近くの沼に遊びに行き菱の実を採って帰ると、母がそれを茹でてくれた思い出が微かにあります。栗のような味だったかなあ・・・・。

因みに、菱の実の形は、忍者が使うマキビシのそれで、鋭い角があります。

画像は、詩とは直接関係ありません。数年前の夏に訪れた上海市内の公園です。

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2015年5月28日 (木)

朱自清「荷塘月色」(月下の蓮池) <訳文>

「荷塘月色」(月下の蓮池)   朱自清

   ここ数日、心穏やかではない。今宵、庭に座り涼をとりながら、不意に思い起こす蓮池の日々。それらの総ては、特別な趣を湛えて満月の光の中にある。月は次第に高く昇り、塀の外から聴こえていた大通りで遊ぶ子供たちの歓声は、既にない。妻は部屋でルンを寝かしつけている。ぼんやりと掴みどころのないあの鼻歌は、子守唄。私は、袖の長い一重の服を着ると、門を閉めて我が家を後にした。

 蓮池に沿って、小さな石炭屑の道が、折れ曲がりながら続いている。この道は、いつもひっそりと佇んでいて、昼間も人通りは少なく、夜は更に寂しい。蓮池の周囲には木々が立ち並び、草木が生い茂っている。それらは楊柳や名も知らない木々だ。月明かりがなければ、この道はただ陰鬱で、人を怯えさせる。月のその光は弱く、今晩は却ってそれが良い。

 道には私一人、後ろ手にしてぶらぶら歩く。この世界の有り様こそは私の思うところ。自己をありのままにさらけ出し、そうして平常とは異なる別の世界に到達するのだ。私は喧噪を愛し、静けさにもまた惹かれる。私は群れを成すことを欲し、独りでいることもまた求める。今宵は、私一人この蒼茫たる月光の下で、どんなことでも出来ると思ったり、思わなかったり、言うなれば、私は自由である。昼に必ず成すべき事や、言っておかなければならない事があっても、今は、その何一つをもしなくて済む。これはこうして一人で居るからこそ許される。そして私は、この無限に漂い続ける蓮の花の香り、月の光が好きだ。

 くねくねと曲がりながら広がる蓮池の水面は、蓮の葉で見渡す限り埋め尽くされている。葉は、水から首を高くもたげて、それは踊り子の優美なドレスにも見える。重なり合う葉の中ほどに目を遣れば、あちらこちら白い花で彩られ、その花はひたすらたおやかで、まるで人見知りをしているかのように俯き恥らう。まさに、花一輪一輪が玉(ぎょく)の一粒一粒。それはまた青空の星々であり、湯浴みをしたばかりの美女か。そよ風が吹き渡れば、爽やかな香りが絶え間なく私の元に届き、はたまた風の音は、遥か高殿からの歌声にも似ている。この時季の葉と花は弾かれた糸のように震え、その震えは稲光のように一瞬にして蓮池の畔に伝わる。葉は互いに肩を並べて密生し、窮屈さを辛抱しているが、その様は青い波の重なりの如くだ。葉の下には池を血管のように巡る無数の水流があり、葉は、視界を遮って池の底を隠す。葉は、風を目に見える形にして、その風情を私に教えてくれる。

 月の光は水のように流れ落ちて蓮を濡らしているし、静かで淀みのない流れには、池一面蓮の葉と花が立ち上がっている。蓮池の上には青い霧が薄く揺蕩う。葉と花は、まるで牛の乳で洗われたようでもある。或いはまた、薄衣の夢で覆い包まれているようだ。満月とはいえ、天上には淡い雲がたなびいて、一点の曇りもなく照り輝いているというわけではない。ただ、私の気分にはこれでちょうど好い。―もとより、熟睡するに越したことはないが、とろとろ浅い眠りもまた格別だ。月光は木立を浮かび上がらせ、高く茂っている灌木が、不揃いでまばらな陰影をつくる。地には黒い影が落ちている。木々のシルエットは、まるで鬼のように表情険しく私の前に立ち塞がっている。池の湾曲に沿って楊柳がそこかしこに影を落としていて、それは蓮の葉に描かれた一幅の水墨画だ。池に届く月の光は均等ではなく、バイオリンが奏でる名曲にも例えられようか、光と影が織りなすハーモニーだ。

蓮池を巡れば、遠く近く、高く低く木立に囲まれて、そのなかでも楊柳は最も多い。木々は、蓮池を幾重にも囲んでいる。そこに小路が延び、所々に出現する不意の空間に光が漏れ、月光は殊の外と言うべきか、そこに留まっている。木々には靄がかかっているようで、陰鬱な表情をしている。それでも楊柳が繁茂している様子は、靄の中にも見分けることが出来る。梢の向こうにぼんやり見えるのは遠い山並みで、山容のだいたいがやっと確認出来る。木々を縫って街路灯の光が漏れているが、まどろむ人の目には、目を覚ますほどの鮮やかな色彩ではない。この時分賑やかなのは、樹上から落ちてくる蝉の声と水面から沸き上がってくる蛙の声。そう、賑やかなのは彼らであって、私といえば何もない。

(以下、「採蓮」のお話は次回。)

一九二七年七月、北京清華園。

 

*底本「朱自清散文集」百花文艺出版社

2014.12.28.洋文:訳了)

<転載、流用、引用等厳禁。読んでお楽しみください。>

昨年末纏めた、私家版「朱自清作品集<一>から、まだネットにアップしていなかった

荷塘月色」(月下の蓮池)」の一部をご紹介します。

 

20155 (画像は我が家の近くの沼)

2015年1月11日 (日)

記録:翻訳して纏めました。「背影、春、その他」(朱自清作品集<一>)

<記録>

昨年末2014年12月28日付。

中国を代表する散文家、詩人「朱自清」の作品を数編翻訳し、小冊子にまとめました。

ホッチキスで綴じ製本テープを張っただけの極めて簡易なものですが、

28部作成し、親しい友人、知人へ配りました。

その目次を記しておきます。

朱自清作品集<一>  「背影、春、その他」

 <散文>

 ばたばた(原題:匆匆)                 

 背影(原題:背影)                    

 月下の蓮池(原題:荷塘月色)                          

 (原題:                     

 

 <詩>

 新年(原題:新年)                     

 除夜(原題:除夜 

 

 ***

 あとがき

*尚、散文の「月下の蓮池」と詩2編以外は、既に本ブログで内容を公開しています。

 

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2012年8月12日 (日)

つまるところ、無題。

新潮9月号。

結局3店目で購入。

広島ではわりかし大きな地場書店チェーンなんか、

もう新潮も群像も置いてないんだって。

文学界は、文芸春秋のついでに置いてあるのかな、なんて。

だれがよむのだろう、

いわゆる、純文芸誌。

(ここの箇所の変換は文芸死。がふさわしい。)

購読者って、新人賞狙いか、未だに文学少年。

まさかねえ。

懐かしかった、こういう雑誌手に取るの。

小川国夫の未発表作品が載ってなければ、

また十年は買わないところだったのだろう。

って、また、俺、くだらんこと、書きすぎや!

ところで、最近の小説読んでふと感じたのだけれど、

パソコン打ちで小説創っているのと、

原稿用紙にペンで直接書いているのって、

なんだか、見分けられるような気がした。

だからどうしたって、ことじゃないのだけれどね。

120812

「ホギリート」更新

2011年11月29日 (火)

ラジオのように、或いは記憶のNoise。

Pen(No.303)の特集記事「あの場所で聴きたい音楽。」で、

ブリジット・フォンテーヌ「ラジオのように」を見つけました。

その記事では、@ウラジオストックとなっていましたが、

私なら、上海の安宿でテイクアウトの小龍包をほお張りながら、

同志と世間話に興じて、

その後ろにこれが流れていたら、いいね。

などと、思ったのでした。

私の持ってるレコード盤のこれ、そろそろ風を通してあげなくちゃ。

先週購入した雑誌は、以下。

Pen(No.303<2011年12月1日号>)630円

特集「あの場所で聴きたい音楽。」

通販生活(2011秋冬号)180円

特集「一日も早く原発国民投票を。」

紅棗「サフラン姫」更新

http://ameblo.jp/qingyesi/

2011年4月 3日 (日)

大空の下。

黒島伝冶「渦巻ける烏の群」(岩波文庫「渦巻ける烏の群 他三篇」所収)。再読。

初めて読んだのは、もう30年近く前になるでしょうか。

これは、1927年の作品です。昭和に直せば、昭和2年。

去年、脚光を浴びた「蟹工船」と肩を並べる、重要な作品だと思います。

短編ですが、その世界は、遥か広く、深く、厳しい。

戦争の本質を衝く、反戦小説です。

そして、人間の存在のなんと儚く、哀しいことか。

春になり、雪が溶け、空を埋めて渦巻く烏の群。その下の大地に横たわるもの。

それを想像するとき、今の、日本が重なります。

私は、テレビから垂れ流される東日本大震災の映像を前に、思うのです。テレビが果たす役割の、なんとむなしいことか。

その、唯一の存在価値は、それが、臭いや空気や、冷たさを、決して正しく伝え得ないことにあるのではないだろうか、と。

もし仮に、彼の地の臭いがリアルに伝わるならば、視聴者の多くは、テレビの電源を切るのでしょうか・・・。

(なぜ、こんなことを私が妄想するか。それは、それこそが、あの死亡者、行方不明者を実感する、入り口になるのではないかと思うからです。)

2011年3月28日 (月)

今朝は、鶯がよく啼いていた。

野上弥生子「野上弥生子短編集」(岩波文庫)より「哀しき少年」。

50年近く、記憶の底で、忘れることの出来ない小説。

2011年3月23日 (水)

きことわ列車

朝吹真理子「きことわ」読了

西村賢太「苦役列車」読了

(共に、文藝春秋3月特別号掲載より)

「きことわ」では、小川国夫「アポロンの島」を、「苦役列車」では、川崎長太郎「抹香町」が、何故だか、ふと頭に浮かんだ。それぞれ全く異なるものであるはずなのに。

「きことわ」「苦役列車」共に、構成のしっかりした端正な作品だ。確かな実力を感じさせる。

ただ、私が二人の作品を読み続けるかどうかは、また別の話。